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短編集52(過去作品)

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完璧の限界



                 完璧の限界


 芸術家にとって、コンセプトと表現力は、切っても切り離せないものである。
 何か主題があって、それをいかに表現させるかが、芸術というものであろう。表現のさせ方はさまざまで、同じであっては面白くも何ともない。
 完璧を求めてはいるが、完璧すぎることが面白くないのを知っているのも、芸術家ではないだろうか。
「完璧すぎると、遊び心がなくなってしまうからね」
 常々、そう考えているのは、小説家を目指している青山三郎だった。彼は何度か小説新人賞への応募をしていたが、なかなか壁は厚く、一次審査通過もままならなかった。
――それほど簡単なものではないか――
 彼は自分の書く作品にはそれなりに自信を持っていた。しかし、ジャンルが今の時代にマッチしていないのも事実で、それが受け入れられない理由の一つだと考えていた。
 あくまでも自分だけの意見である。人が見れば、
「そんなのはお前だけの考えだ」
 と言われるかも知れない。ジャンルが原因ではなく、実際の実力自体がともなっていないのだろう。
 芸術家というのは、得てして自分よがりのところがある。
――人と同じことは嫌だ――
 と思うのは誰にでもあることだが、そこに妥協を許さないのが、芸術家たるゆえんではないだろうか。
 芸術家と他の人の違いは、いかに自分を芸術家だと思うかということである。自覚が却って驕りになったり、自信過剰を招いたりする場合もあるが、それであれば、芸術家としては失格といえるだろう。
 確固とした自信のようなものが心の奥で静かに燃えているような感覚、それが芸術家には必要だ。
「芸術家って変わり者が多い」
 と言われるが、それでもいいと思っている。むしろ、その他大勢と同じであることを嫌うのだから、それが当然というものだ。
 昔の芸術家は、堅物のイメージが強かったが、今はトレンディな雰囲気の人も多い。
 中にはカジュアルな服装が似合い、どこにでもいるような青年だったりもする。心の奥で、
――俺はお前たちとは違うんだ――
 と思っていながら、目立たないように振舞っている。一見矛盾しているように思うが、自分の中でだけ他の人との違いを感じていることが優越感に繋がる。優越感こそ、芸術家の原点ではないかと考える。
 だが、あくまでも自分に対して厳しくなくてはいけない。それが芸術家としての心構えの出発点である。
 完璧を求めるのは誰もが同じである。完璧に近づくために自分に厳しく、そして、まわりや自分を客観的に見る目を養うことが大切である。
 完璧であるがゆえに面白くないと思われるのではないかと最近になって考えるようになった。
 冷静で、非の打ちどころがなく、隙のない人間がいるとしよう。そんな人間をテーマに小説を書いてみると、意外とアッサリしたものに終わってしまうかも知れない。ストーリーが決まってしまって、主人公として描こうとしていた人物が、いつの間にか脇役に代わっていたりする。そんな想像をしてしまうのだった。
 小説も淡白なものになるに違いない。その人にしか分からないポリシーを、他の人に分からせようというのは難しいもので、それを文章にするのはもっと難しい。隙のない人間の心境がどんなものか、想像もつかないからだ。
 意外と寂しいものかも知れない。孤独と背中合わせの人生を送っているのかも知れない。他の人と同じでは面白くないと思って一匹狼を続けること、それが冷静で隙のない人間を形成していると思っているからで、それは孤独と紙一重でもあった。
 完璧に近づけば、そのことに気付くだろう。何となく分かってきたのは、自分が芸術家肌だと感じてきたからで、それまでは、完璧だけを目指せばいいと思っていた。
 何も完璧でなくとも、遊び心が、完璧を超えることだってある。それを探してみたいと思うのも一興ではないだろうか。最近の青山はそのことを考えるようになっていた。
 投稿をしようと思うが虚しくなる。いくらいい作品だと自分で思ってみても、見る人の感覚が違うのだ。それは一般読者とも違って、実際にもの書きの先生による審査である。一次審査ともなれば、先生と言われるまでに至らない人たちによる審査である。それもどこまで真剣に行っているか、わかったものではない。
 何かを探したくなるのは、発作のようなものだ。
 何かというのは、自分が時々分からなくなり、自分の目指していたものが何なのかということであったり、自分の普段考えている内面的なものを再度見直したいという気持ちになることである。
 時々旅行に出かけたくなることがある。作家がよく一人篭って作品を書くための隠れ家のようなところを持っているというが、そんな心境だった。誰も来ないような一軒の温泉宿に逗留しての孤独な時間、それこそ執筆意欲が湧くというものではないだろうか。
 だが、その反面、小説とは人間ドラマであり、俗世間から隔離されたようなところで書いても、アイデアが出ないのではないかと思うこともある。最初なかなか書けない時に、喫茶店の窓から人の流れを観察することでアイデアが噴出してきて、書けるきっかけになったことを思い出していた。
 旅行に出かけたいという思いは、執筆意欲は二の次で、自分を見つめなおしたいと思うことが一番かも知れない。今さらではあるが、さらなる違った自分を発見できるのではないかという思いが頭をよぎるのであろう。
 温泉に出かけたいという気持ちはまずその現われに違いない。普段、俗世間への不満があるというわけではないが、俗世間の中にいる一人の人間としての自分が分からなくなる時がある。
 芸術に勤しんでいる時以外の自分は、
――世の中の歯車のひとつでいいんだ――
 と思っている。謙虚で、背伸びすることもない。それも、芸術家としての自分とのギャップであった。
 世の中に出て、
――歯車でいい――
 という発想は、中学生の頃からあった。
 あまり目立つことのない性格だった小学生時代、どちらかというと苛められっこに近かった。人が誰かを苛めていると、かわいそうだと思いながらも、自分に被害がないことでホッとしているような少年だった。
 実際に苛められていた時期は短かったが、それが頭にこびりついて、いつも何かに怯えていた。
 自分が一度受けた痛みは、人が受けていても分かる。何とかしてあげなければいけないと思いながら、何もできない自分が腹立たしい。人が苛められることを予知できるのも自分だけのはずなのに、何もできないのだから、これほど悔しいものはない。
 人との関わりを極端に避けていた小学生時代であった。何もしない連中の目も嫌だった。まるで汚いものでも見るような冷たい視線。視線の先にいるのが自分であるということを意識するまでにどれほど時間が掛かったであろうか。認めたくない自分がいたからに違いない。認めることが敗北に繋がると分かっていたからだ。
 すでに苛められることで敗北しているのに、さらなる敗北は自分で許せない。どこかでラインを引いて、そこから先は自分の領界だと思っていたのだ。
 そんな青山に他の人が友達になってくれるはずもない。
――結局僕は一人なんだ――
作品名:短編集52(過去作品) 作家名:森本晃次