⑥冷酷な夕焼けに溶かされて
本物か、偽物か
草を踏みしめて、ゆらりと黒い影が現れた。
鬱蒼と繁った木々が月光を遮り、その人物の顔は暗闇に溶け込んで判別できない。
けれど、ふわふわの綿飴のようなまあるいフォルムの髪の毛と、すらりとした長身のシルエットは、まさに探し求めていたその人だった。
「ミシェル様!」
私は名を呼びながら駆け出し、その胸に飛び込んだ。
すると、逞しい両腕に力強く抱きしめられる。
「ご無事で良かった…ミシェル様!」
胸元に深く抱き込まれ、あたたかな温もりに包まれた私は、彼の胸元をぎゅっと握りしめた。
すると、そんな私の足にペーシュが体を擦り付けながら低く鳴く。
「にゃー…。」
「…!姫、ダメです…離れて!」
その声を聞いた途端、マル様が私の手を引く。
「もう遅い。」
頭上から聞こえた低い声に、私の体がぞくりと震えた。
その声はミシェル様そのものだけれど、どこか異質に感じる。
咄嗟に身を引こうとしたけれど、既にしっかりと体を拘束されており、身動きがとれなくなっていた。
「姫!」
殺気立ったマル様の声と共に、ジャキッと金属音が一斉に起こり、忍たちが武器を構えた気配を感じる。
けれど、それと同時に、私の首筋にひたりと冷たい刃先が当てられる感触がした。
「デューの姫、確保。」
胸板から響く低い声からは、勝ち誇った笑みを浮かべているであろうことがわかる。
「…っ…撤収!」
それと同時に、マル様の声があがった。
「姫!必ず助けに参ります!!
それまで、何があっても生きていてください!」
一斉に去る人の気配の中で、マル様の声だけが響く。
それと入れ替わるように、複数の重い足音が駆け寄ってきた。
「遅い!取り逃がしたではないか。」
「は!申し訳ございません。」
(…罠…だったの?)
「にゃーおぅ…」
混乱する脳内に、ペーシュの唸るような声が響く。
(…ペーシュ!)
足元のペーシュを見ようとした瞬間、乱暴に顎を掴み上げられた。
「!」
見上げた先に、暗闇の中でもはっきりわかるほど端正な顔が間近にある。
(やはり)
「…ミシェル…様…。」
「バカな女だな、おまえは。」
愛しい人は、喉の奥で笑いながら私の耳元で冷ややかに囁いた。
そして、私の顎をとらえたまま、彼は足元のペーシュに手を伸ばす。
すると、その手にペーシュがとび乗った。
「…本当に…ミシェル様?」
たしかに、姿も声もミシェル様そのものだ。
この冷ややかさも、ミシェル様。
けれど、なぜか違和感が拭いきれなかった。
(ミシェル様は、もっと仄暗さがあったような…。)
私のそんな疑心に気づいたのか、整った唇が弧を描く。
そして、噛みつくように私の唇を奪った。
「…っん!」
頭をふって無理やりこじ開けられた隙間から、熱い舌がぬるりと侵入してくる。
そのまま荒々しく舌をからめとられ、深く激しく口づけられた。
私は、ミシェル様の口づけしか知らない。
だからこれがミシェル様と違うのかどうかも、わからない。
けれど、もしこの人がミシェル様であっても、この口づけに幸せを感じることはないだろう。
(だって…愛が全く感じられない…。)
まるで私の尊厳を蹂躙するようであり、酷く傷めつけられた心の傷から溢れ出す血のように、涙がこぼれた。
「…ふふ…」
泣き出した私に気づいた彼は、冷たく笑いながら口づけをやめる。
「は…っ…はぁ…」
ようやく解放されたものの、手足に力が入らなくなってしまっていた。
恐怖でガクガクと震える手足では彼の腕から逃げることもかなわず、その腕に身を委ねるしかない。
「くく…ヘリオスも所詮、女だな。」
嘲笑いながら、彼は私を軽々と肩に担いだ。
「戻るぞ。」
颯爽と歩き出す彼のやわらかな癖のある髪が、風にふわりとたなびく。
そして、その先端が優しく私の濡れた頬を撫でた。
足早に茂みから出た彼は、月光を浴びる。
その月明かりに照らされた髪の毛は金髪で、ミシェル様そのものだった。
(…やはり、ミシェル様なの?)
反対の肩に乗っているペーシュに目で問いかけてみるものの、当然ながら返事はない。
ただ、いつも甘えていたペーシュではなく、どこか張りつめた緊張が見てとれる、『使役動物』のような表情に、私は戸惑いを隠せなかった。
その凛とした冷ややかな姿に、ふとリク様が重なる。
『万が一にも捕らえられでもしたら、非常に面倒です。』
(…ごめんなさい…リク様…。)
おとぎの国を出る前に言われた言葉がよみがえり、小さく頭を下げた。
(この人が本当にミシェル様かどうか、しっかりと確かめるべきだったわ…。)
あの時、マル様の一瞬の判断が遅ければ、星一族も捕らえられていただろう。
自らの軽率さを後悔しつつ、星一族だけでも逃げてくれたことにホッとした。
(これ以上、足を引っ張らないようにしないと!)
ぐるぐると考えているうちに、いつの間にか裏庭を抜けており、私室の扉が開くところだった。
懐かしい、ミシェル様と暮らした部屋に、こんな状況にも関わらず、私の胸は踊る。
「にゃん!」
ペーシュもホッとしたのか、可愛い声をようやくあげながら肩から飛び降りた。
ぞろぞろと屈強な男たちが後をついて入ってくる
と、広い私室も狭く感じる。
彼は慣れた様子でいくつもの扉をくぐり、私にか
つて与えられていた小部屋に到着した。
そして、私を担いだまま足を止める。
それを合図に、騎士達は一斉に跪いた。
「セルジオがそろそろ国境に着く頃だ。
カレンと星一族の隙をついて、捕獲しろ。」
「は!」
ミシェル様の命に頭を下げると、足早に皆去って行く。
あっという間に私室の中は静まり返り、居心地の悪さに視線をさ迷わせた。
「にゃん」
そんな張り詰めた空気を和らげるように、ペーシュが可愛く鳴きながら戻ってくる。
そして、ミシェル様の足に体をこすりつけ甘えた。
「飯か。」
先程までの嗜虐的な雰囲気とはうって変わり、表情を和らげながらペーシュを抱き上げる。
「にゃあん」
ごろごろと喉を鳴らすペーシュを撫でながら、ミシェル様はカーテンの向こうへ姿を消した。
「…。」
わからない。
今の姿は、ミシェル様そのものだ。
けれど先程、ルイーズを捕まえろと命じていて…。
本当にミシェル様なら、そんなことをするはずがない。
しかも、帝国の騎士を従えていて…。
後宮の皆を、楽楽を殺した帝国の騎士を従えているなんて、信じられなかった。
それに、マル様やフィンの話とは、ずいぶん様子が違っている。
『正気でなかったら、どうしますか?』
マル様の言葉が、ふとよみがえる。
(これが、正気でないということ?)
正気でない、正常な判断ができない、それとも、反抗できないという状態なのだろうか?
けれど、先ほどの帝国の騎士達に命じていた威風堂々とした姿には、どれも当てはまらない気がする。
それよりも、『姿はミシェル様なのに、別人のよう』という表現のほうが、しっくりくる。
(威風堂々としてはいるけれど、ミシェル様のような情が感じられない。)
作品名:⑥冷酷な夕焼けに溶かされて 作家名:しずか