夢幻圓喬三七日
「あたしにはおまえの方が生き字引に聞こえますよ」
「イエ〜、まあ、あれです……、そうそう、たまさか俳句の会で遣り手のお婆さんと一緒になりまして……」
番頭さんがしどろもどろになる様に会場は沸いている。熊蔵丸屋って鰍沢に登場した見世だ。佐野槌のお隣さんだったんだ。
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「私は白銀町三丁目近江屋卯兵衞(うへえ)と申しまして鼈甲渡世(べっこうとせい)を致すもので、此者(これ)をお見覚えがございますか……」
長兵衛のおカミさんは、せっかく娘が我が身と引替えに拵えたお金を、またぞろ博打で擦ったと思い、長兵衛を責め立てている。一晩中夫婦喧嘩をしていたその長兵衛の長屋へと、近江屋の主人が文七を連れて訪ねてくる。すったもんだの末に、お金を受け取る長兵衛。お馴染みのシーンだ。
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「……明日(みょうにち)あたり餅搗きを致しますから、直にお供をお届け申しますが、どうぞ幾久しく御交際を願います」
「冗談いっちゃアいけやせん、私(わっち)は御覧のように貧乏渡世を致しているんですぜ。親類になろうもんなら、番ごと借りにばかり行って仕ようがねえ」
「イエイエどうか願います、それに又この文七は親も兄弟もないもので、私どもへ奉公に参った翌年に親父がなくなりましたが、実に正道潔白な人間ですが、いかにも弱い方(ほう)で店でも出してやりたいが、しかるべき後見人が無ければ出してやれんと思っておりましたが、貴方のようなお方が後見になって下されば私は直に暖簾を分けてやるつもりで、命の親という縁もございますから、親兄弟の無いものゆえ、此者を貴方の子にしてやって下さいまし、文七も願いな」
近江屋の主人は、百両という大金を、困っている文七にポンと遣ってしまった長兵衛の男気にいたく感銘を受けて、是非、長兵衛一家と親戚付き合いをしたいと願い出ている。
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「お父(とっ)つぁん帰って来たよ」
「ムーンお久……どうして来た」
「此処にいらっしゃる鼈甲屋の旦那様に請出(うけだ)されて帰って来たよ。お母(っか)さんは? お母さん!」
「オヤお久、帰ったかえ」と云いながら起つと、間が悪(わり)いからクルリと廻って屏風の裡(うち)へ隠れました。さてこれから文七とお久を夫婦に致し、主人が暖簾を分けて、茅場町へ元結(もとゆい)の店を開きました。この店が女房が親孝行で、亭主は主人に忠義を尽すと評判になり繁盛したという。孝(こう)と忠(ちゅう)との縁(えにし)を結ぶ文七元結(ぶんしちもとゆい)というお目出度いお話でございます。
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頭を下げ終わってから、師匠が立ち上がるまで拍手はなかった。みんな放心しているようだ。真っ先に我に返ったのは金髪碧眼の二人だった。立ち上がって拍手をすると、それで会場全体が目覚めたかのように、拍手が巻き起こった。ほとんどの人が立ち上がって拍手をしている。中には何人か立ち上がっていない人がいたが、その人たちは全て同じ職業だった。あまりの出来に立ち上がれなかったのだ。並んで座っている朝太さんと若朝さんの顔は涙でグシャグシャだ。
拍手が鳴り止むと、客席全体がため息をついたような安堵感に包まれる。やがて、出口に向かって歩き始めるお客さんたちに混じって、大将と父が歩いてくる。
「ちっきしょう、悔しいなぁ。俺たちが生きている内には、こんな噺はもう聴けないよな?」
「全くだ。何年長生きしたら良いんだろうな」
「今まで師匠の噺を聴けたことが、奇跡みたいなもんだよな?」
「全くだ。今日も奇跡の高座だったな」
一般のお客さんが引けるまで、本職の人たちは席を立たなかった。ゆっくりと立ち上がり、みんな控室へと向かっていく。噺家の行列が途切れるのを待って控室へ入ると、協会長が師匠と話をしていた。
「あなたがどこの何方(どなた)かはお聞きしませんが、これだけは言わせてもらいます。よくぞ今の時代で噺をして下さいました。会長、会長といわれて踏ん反り返っている場合ではないと、思い知らされました」
百年以上昔、真夏に冬の噺『鰍沢』を演った師匠が、現代の冬では夏の怪談噺をしなかったことに気づいた。今度は夏にやって来て、怪談噺をしてくれないかな。奇跡の怪談を聴いてみたくなった。
師匠圓朝から受け継いだ芸の数々を、見事に謳い上げた四代目橘家圓喬の三七日(みなぬか)が終わった