夢幻圓喬三七日
「それどこじゃアないよ、こうしてお前の事を心配して来たんだよ。今朝方、お馴染みさんを送ってった、遣(や)り手の佐代さんが門口(かどぐち)でうろうろしている此(こ)の娘(こ)を見つけたんだよ。あたしも忘れちまったがね、佐代さんが覚えていたよ。あれは何年前かね、お前さんが仕事でここへ来てる時分に、お母(っか)さんが作ったお弁当を大事そうに届けに来ていた娘だろ。その娘がおいおい泣いて口が利けないんだよ……」
博打にハマって左官仕事もしなくなり、夫婦喧嘩が絶えなくなった父親の長兵衛に、なんとか元の生活をして貰いたいと、嘗(かつ)て見知った吉原の妓楼佐野槌に、我が身を買ってくれと泣き付く娘のお久。そのお久の心情を瞬時に理解した佐野槌の女将は父親の長兵衛を見世に呼びよせて諭す。僕がこの噺で一番好きな場面だ。ご内証(ないしょ)で進む三人の会話で、この噺に対する演者の理解が分かる。
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「えゝ……、誠にどうも面目次第(めんぼくしでえ)もごぜえやせん。そんな事と知らねえもんですからね。年頃にもなってやすから、ひょッとすると悪い奴に誘われて遠くへ行っちまったかと思って、嬶(かゝ)アも驚きやして、深川の一の鳥居まで探して歩いた訳なんで」
「お前さん、此の娘を悪くお思いでないよ。おまえさんたち夫婦の事を一心に思うからこそだよ。わたしゃねぇ、そこまで思い切れる此の娘の若さが羨ましいんだよ」
「へえ、お久、堪忍してくれ、お前(めえ)にまでおれは苦労をさせて」
こんなのは泣くに決まっている。最初は軽かった長兵衛が、次第に改心する様子が手に取るようにわかる。
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「私は、固(もと)より覚悟をして来た事だから、何時まででも、どんな奉公もしますけれど、お父(とっ)つぁん、そのお金をいつものように博打に引掛って失(なく)してしまうと、お母さんがあゝいう気性だから、何んだ彼んだというと、お父つぁんが又癇癪を起して喧嘩を始めて、手荒い事でもして、お母さんが癪でも起ったりすると、私がいればお医者を呼びに行ったり、薬を飲ましたりして看病する事も出来ますが、私がいないと、お母さんを介抱する人がないのだから、お願いだから、お母さんと交情好(なかよ)く何卒(どうぞ)辛抱して稼いでおくんなさいよ、よ」
「あいよ………、あいよ……、誠にどうも、どうも面目次第もごぜえやせんで、何んともはや、どうも、はア骨身に染みやした」
「じゃあ早くうちへ帰って、おかみさんを安心させてお上げよ」
「じゃアお久、宜いか」
「お母さんに黙って家を出てしまいましたから、謝っといてくださいな」
「わかった、わかったから、女将さん失礼いたしやす、お久を宜しく頼みます」百両を懐に長兵衞は見世を出て行きます
「お久ちゃん、お前のおとっつあんが一生懸命仕事をしている間は、一年が二年たとえ三年になろうとも見世に出すような事はしないよ、だからしっかり奉公しておくれよ」
あっ、長兵衛には貸した百両を返せなければ、一年過ぎたら娘のお久を見世に出すといっていた女将が、本心をお久に語っている。客席からすすり泣きが聞こえる。
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「土手の道哲右に見て 待乳山(まつちやま)から聖天町(しょうでんちょう)を通って 山の宿から花川戸を抜けまして 今吾妻橋を渡りに掛ると 空は一面に曇って雪模様 風は少し北風(ならい)が強く ドブンドブンと橋間(はしま)へ打ちつける浪の音 真暗ななか 観音様の奥にぼんやりと吉原の灯(あかり)だけが煙(けぶ)って見えます」
家を出るときに、カミさんから奪い取った女物の着物を着て、家路を急ぐ長兵衛。吉原から吾妻橋への道中づけを、一息に情感込めて言い切った。師匠の視線の先に吉原の灯が見えた。水を打ったような場内で、かすかに聞こえる空調のフーーという音さえも、場景を浮かび上がらせる効果音のようだ。
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「ご主人はお前は身寄頼りのない身の上だから、辛抱次第で行々(ゆくゆく)は暖簾を分けてやる。その代り辛抱をしろ、ゆめゆめ曲った心を出すなと御意見を下さいます」
「そんなにいいご主人なら今頃、心配して店総出で探し回ってるんじゃねえのか。きっと深川の一の鳥居くらいまでは探してるぜ。そんなお人に心配掛けるんじゃねえよ」
「わたくしも心配をお掛けする気はございませんが……」
「だったら主人に正直に話すがいいじゃねえか。きっと分かってくれるだろうよ」
「いいえ、ご主人が余り親身になすって下さいますもんですから、番頭さんが嫉(そね)んで忌(いや)な事を言いますから、相談も出来ません。女郎買でもして使い込んだと思われますから、面目なくって旦那さまに合わす顔はございません」
「しょうがねえなア、どうしてもお前(めえ)死ななくッちゃアいけねえのか……」
「私だッて死にたくはございませんけれども、よんどころない訳でございますから、どうぞお構いなく行って下さいまし」
「お構いなくったって行けねえやな……、泣くんじゃねえよ、顔をあげなよ……、お前(めえ)まだ若(わけ)えな、何歳(いくつ)んなった」
「はい、十九でございます」
「そおかア、お前(めえ)が死のうとしてるのもご主人の事を一心に思うからこそだな。そこまで思い切れるその若さが羨ましいぜ……、わかった、この金お前(めえ)にやる」
得意先から受け取ったはずの掛け金百両をスリに奪(と)られてしまい、吾妻橋から身を投げようとしている文七。
文七の主人に対する想いに、自分たち夫婦に対する娘、お久の想いをダブらせる長兵衛。
師匠は吾妻橋から吉原の方向へ視線を走らせてから、文七に金をやると言い放った。二度のやり取りの後、文七に百両の金を投げつけて長兵衛は走り去る。
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「旦那、文七が帰りました」
「さア、さア此方(こっち)へ遣(よこ)しておくれ、実に困ります。文七や、お前は水戸様のお払いをなくしたと思って探していたんだろう。ちゃんと此処(こゝ)に百金届いていますよ」
「ヘエ……、それじゃア私ゃ奪られなかったんだ」
「なに」
「それは何(ど)うも、大変な事で」
「何(な)んだ」
「ヘエ………、それは大変」
文七がスリに奪られたと思った金は、得意先で碁に夢中になって、置き忘れていたことが判明する。
近江屋(おうみや)の主人は、文七が話し出すよりも先に、得意先から百両というお金が届いていることを文七に聞かせている。それにつられて文七も、正直に吾妻橋での出来事を主人に話す。誰も嘘をつかない、誰も隠し事をしない文七元結が、師匠の口から語られている。本職は皆、大きく身を乗り出していた。
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「……佐野槌というのは女郎屋さんだ。そこへ行ってお久さんという十七になる娘が身を売ったかと聞けば、それから知れるが、私(わし)は頓と吉原へ行った事がないのだ。こういう時には誠に困る、店のものも余(あんま)り堅いのは斯(こ)ういう時に困るな、吉原へは皆な行った事がないからのう、平助どんなぞも堅いから吉原は知るまい」
「ええ、ええ……、佐野槌てえ女郎屋は、大門をくぐり江戸町を左に曲がりまして右側三軒目、熊蔵丸屋(くまぞうまるや)の隣にある立派な見世で、ここの遣り手の婆さんが吉原の生き字引で……」