夢幻圓喬三七日
楽日:平成24年12月12日 水曜日梗概
「さてお短いもので、ちとお古い処のお話を申上げますが、只今と徳川家時分とは余程様子の違いました事で……」
恐らく文七元結のマクラだろう。それ以外には考えられない。こうして師匠の声で起きるのも、今日が最後になるはずだ。落語『鰍沢』で起こされたときは、寒くて最悪の目覚めだった事が懐かしい。初日は永遠に続くかのようだった師匠との時間が、瞬く間に過ぎてしまった。弟子をよろしくと云った圓朝師匠に、僕はどこまで応えられたのだろうか? この日を迎えると僕に出来ることは、ほとんど無いように思う。まあ、今までもあまり出来たことは少ないけど……。師匠がその落語とともにどのように今の時代を駆け抜けたのかを、僕の記憶に留めることが最大の恩返しだ。
四代目橘家圓喬師匠との一日が、今日も始まる。
ご近所の皆さんは落語会を楽しみにしてくれているが、やっぱり寂しそうだった。たった三週間、人によっては数回しか会っていないが、みんな師匠の思い出を持っているのだろう。コンビニではバイトの女の子が泣き出してしまい、これも涙目の店長に慰められていた。
「♪君と私は〜 かりょうのびんが〜 苦労しながら〜 離れない〜♪」
「♪酒も肴も〜 自由なこの世〜 一目会いたや〜 ホトトギス〜♪」
「♪これで見納め〜 むげんの世界〜 明日になったら〜 なんとしょお〜♪」
師匠の都々逸が今日もバスルームから聞こえてくる。僕はトイレで泣いた。
師匠と二人、圓馬さんたちに線香を手向けてマンションを出る。
会場のホールへと続くエレベータでは、師匠も上手く耳抜きが出来たようだった。ホール前の受付には、すでに美代ちゃんと瀬尾さんが立っていた。美代ちゃんに先導されて、師匠は控室へと歩いて行く。僕と二人だけになった受付で、瀬尾さんが優しく話しかけてくれた。
「柴田さんて不思議な方ですよね。柴田さんを見ていると、自分は今まで何をしてきたんだろうって、そんな風に思ちゃうんですよね〜。向こうに行ってもそうなんでしょうね?」
「えっ?」
「ニュージーランドです。キウイ農家をされるんですよね」
「ああ、そうですね。きっと向こうでも相変わらずでしょうね」
朝太さんと若朝さんが申し合わせたように現われ、受付へ静かに頭を下げてから、控室へと消えていった。入れ替わりに美代ちゃんが戻ってきて僕と交代だ。
寄席の楽屋と比べるとかなり広い控室は、心地好い緊張感で溢れていた。テーブルにはメクリが置いてある。桑の木幼稚園で園児が書いてくれた、師匠のメクリまで用意されていた。適度な距離を置いて腰掛けている三人に、声をかけることは出来ない。もう二度と味わうことのできないこの空気を、全身で感じていたかった。
神林さんも静かに挨拶をしただけで控室を出ていき、再び控室に身を刺すような静寂が戻る。朝太さんと若朝さんが武者振いなのか震えているのが分かって僕はトイレに逃げ込んだ。
顔を洗ってから客席を覗くと、かなりの人で埋まっている。みんな、この時代で師匠が知り合った顔ばかりだ。
受付へ行くと、そば屋の大将が立っていて、知った顔が来ると嬉しそうに、そして少し寂しそうに、挨拶を交わしていた。両親が来て、大将と立ち話をしている脇を、墨芯堂のご主人と夕太郎さんが会場へと入っていった。後を追い掛けるように、園長先生親子が会場へと進む。大阪で大喜利を盛り上げた三人も、明るくやって来てくれた。朝太さんの師匠と、圓馬さんが連れだって入って来る。「ここはあたしのホームグランドみたいなもんだから、見逃すわけにはいかなくてね」そう言った圓馬さんのすぐ後ろには、朝太さんが所属している協会長の顔が見える。本職の噺家が何人来場しているのかは分からないが、来てくれた人の心に、師匠の噺が届くことを願う。
僕は再び控室に戻り、開演までの時間に静かに身を委ねることにした。
美代ちゃんのアナウンスで静かに幕が上がる。師匠の提案で出囃子は使わない。当然、舞台マイクも使用していない。美代ちゃんと若朝さんは客席に向かったが、師匠と僕は控室に残る。控室でも朝太さんの高座は何とか聴こえる。朝太さんは、儲からない噺といっていた『執拗(ごうじょう)』だが、時々客席から笑い声が聞こえてくる。サゲて大きな拍手に送られて朝太さんが戻ってきた。「お先に勉強させていただきました」ひどく疲れて、それでいて満足そうな顔だ。「きちんと出来ていたじゃないか。これからもしっかり稽古をおしよ」師匠の言葉に、涙を落とした朝太さんは、控室に戻った若朝さんと入れ替わって、客席へと向かった。
若朝さんの『江戸荒物』は、大阪から来た人にはもちろんのこと、東京のお客さんにも受けている。江戸っ子と店主の掛合いが始まると、笑い声で若朝さんの声が掻き消されそうになる。サゲ近くになって、美代ちゃんが中入りのアナウンスのために、控室へと入ってきた。どうしてサゲが近いと思ったのだろう。誰かが教えてくれたのかな? サゲて大きな拍手と共に幕が一旦下ろされる。「勉強させていただきました〜」若朝さんが朝太さんと同じように、疲れてそして満足そうに高座をおりてきた。「益々磨きがかかったね」師匠から声をかけられた若朝さんは、
「朝太さんにあないな芸を見せられたら、力が入りますがな。一年分の力を使い果たしたみたいですわ。あ〜しんど」
美味しそうにミネラルウォーターを飲んでいた。朝太さんも客席から戻ってくると、開演前とは違って二人の会話も弾んでいる。
「若朝さんの江戸弁には、僕の周りに座っていた師匠たちも、身を乗り出していましたよ」
「朝太はんの執拗も、お客さんよりも噺家が感心してましたわ。あないに難しい噺をよう稽古しはりましたな。今度教えて下さい」
「江戸荒物と交換で稽古しましょう」
「せやせや、また二人で一緒に稽古しましょうな」
盛り上がる二人の会話を、師匠は深い笑顔で聞いていた。師匠の出番が近づくと、二人の会話に沈黙が混じり始めた。
「そろそろだな。みんな前で聴いておくれよ」師匠の言葉を合図に、それぞれの役割を無音でこなす。『はんにち えんちょう』のメクリと白湯を準備して、みんなで客席へと移動した。最後列に並んで座る。美代ちゃんは瀬尾さんと僕に挟まれている。僕たちの前の一角は、噺家の皆さんが多い。幕が上がり、師匠が少し猫背で上手から歩いてくる。すでに盛大な拍手が起こっている。師匠が頭を上げても拍手は鳴りやまなかった。
やがて静まり返る会場。空調のフーーという、小さな音だけが聞こえてくる。
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「……、ここ本所(ほんじょう)の達磨横町に左官の長兵衞という人がございまして、実に腕が良く、蔵の壁などを雨風や、火に強いなまこ壁に、仕上げられる職人は少ないもので、なまこの中心には、落雁模様の細工を施すほどの腕があり、蔵の腰周りだけは長兵衞さんに頼む、というほどの腕前でして、……」
ほんの数人のお客さんと、本職の人たちの頭が少し動いた。すでに今までの文七元結と違うことに、気づいたのかもしれない。
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