夢幻圓喬三七日
本格的な蕎麦屋でご馳走したくなった。まだ先は長い、いくらでもチャンスはあるだろう。ほぼ同時に食べ終わって、師匠に白湯(さゆ)を入れる。僕はホットコーヒー、一筋ノドに流してから師匠が亡くなってからの出来事を話し始める。何度かの大震災のこと、戦争のこと、寄席のこと、吉原のことなどをパソコンを使いながら説明する。
師匠はパソコンを見ても驚かなかったが、寄席が極端に少なくなったことや吉原がなくなったことにはひどく驚いていた。そしてやっぱり寂しそうだった。
続いて父親との電話の内容を話すことにした。茨城の自宅を拠点として落語会を細々と催している落研時代の大先輩であること、特に古い噺を中心に持ち根多にしていること。力試しとして古くからの落語ファンである父親とそのお仲間に聴いて貰いたい、そう父に伝えたことを師匠に説明した。
そして、高座が終わったら、高座にたいする評価の意味で、お一人につきゼロ円から五百円までの御祝儀をいただきたいと、父にはそのように伝えてある。
師匠は黙って聞いていたが、僕の説明が終わると
「正直に話すわけにはいかないとはいえ、あんたの親父様(おやじさま)にまで嘘をつくのは心苦しいな」
ポツリと呟いた。
「父は久しぶりに生の高座が観られるって喜んでいましたから、そんなに気にしないで下さい」
「そういえば親父さんも落語が好きなんだったな」
「ええ、志ん生・文楽を寄席で見たのが自慢ですからね。若い頃は寄席へ通ってたみたいです」
「文楽ってぇとデコデコのあとに、あんぱんで揉めたけど違うんだろうな、あとで聴かせてよ」
チンプンカンプンだ『あとで聴かせてよ』しかわからない。
「わかりました。それで、実家での落語会は明日なんですが大丈夫ですよね?」
「今夜だと思ったよ」
「柴田さんは僕からの連絡を受けて茨城から出て来ることなってるんですから今日は無理ですよ。明日の午後三時からです」
「いくら今の時代でもそんなに早くは行けないのかい」
「ここからだと電車で三十分ちょっとですが、茨城からだと二時間以上掛かりますよ。それにご近所さんに声を掛けますから明日が精一杯です」
「そうなのかい、ご実家はどこなんだい」
東京に唯一残っている都電沿線の地名を伝えた。
「八幡(はちまん)神社んとこだね」
「そうです、お詳しいですね、寄席があったんですか?」
「近くに石浜館て寄席があったんだけど、なんでこんな所に石浜って思ったもんだ」
よく分からないが今は先を急ごう。
「それで柴田さんの細かなプロフィールは適当に考えておいて下さい」
「ぷろふぃーるってなんだい」
「あ、ご免なさい、略歴です。仕事は何をしてたとか、結婚しているのかとか僕の両親との会話で出てきそうな事柄です」
「おっかさんまで出てくるのか?」
「そりゃ出てきますよ。僕が生まれるまでは二人で寄席にも行ってたくらいですから」
「そうなのかい、じゃぁ明日はご婦人もいるんだな」
「母も声を掛けると思いますから、何人か来てくれると思いますよ」
「わかった、わかった。それと今の寄席のこともあんたに聞いておかないといけないね」
「そうですね、あとで説明します」
「あとは親父さんとの話に出てきそうな噺家のことだな。親父さんの好きな志ん生・文楽はあたしが高座を観ていたらおかしいんだろ」
「そうです、そうです、よくお分かりで」
「馬鹿にするなよ」
このイントネーション好きかも
「略歴付きで色々な噺家を聴いて貰いますね」
それから寄席の詳しい話と主な噺家のことを話題に会話がすすんだ。人形町の末廣(すえひろ)が無くなったと聞いたときはかなり落ち込んでいた。何と言っても『玄冶店(げんやだな)の師匠』だ。
両親との会話で出てきそうな噺家ことを話し始めると、師匠の気持は立ち直ったようだった。
「あとはテレビで聴かせて貰いながらわからないことは聞くよ。それより明日はおまえさんも演るんだろ」
「演りませんよ! 演るわけ無いじゃないですか。僕がやったらご祝儀がなくなっちゃいますよ」
「おおそうだった、ご祝儀がかかってるんだったな。一人で頑張るか。帳簿付けてあるかい」
「ちゃんと付けてます。それと高座名はどうしましょうか」
「おまえさんはなってったんだい」
「えっ……馬巣亭遠足(ばすていえんそく)です」
「立板に水とは行きそうにない名前だな。じゃあ、そこから一文字(ひともじ)貰って、立花家蛇足(たちばなやだそく)でどうだ、立つ花の立花だ」
「いいと思います。それと出囃子はどうしましょうか」
「東京でも出囃子になったんだな。でも片シャギリでいいよ、上方でもそれで通したから」
急いでパソコンを操作して片シャギリを検索したが、わからなかった。師匠が呆れている
「なんだ知らないのか、じゃぁなしでいいよ」
「すみません」
「どこでやるんだい親父さんの家かい」
「そうです、仏間と居間を襖(ふすま)を取って広く使うそうです」
「御座敷だね」
「高座は用意できないと思うんですが大丈夫ですか」
「何を心配してるんだい」
そうでした、名人圓喬でした。
「じゃ夕飯までテレビを聴かせてもらうか」
不肖私、馬巣亭遠足の解説付きで、新旧の噺家を五席聴いて、夕食に行くことにする。
お隣のご主人はまだ帰っていないようだ。管理人室も今は真っ暗だ。
「コンビニで買ってきて、喰いながら他の噺家を聴かせてもらうか」
師匠はコンビニに向かってどんどん進んでいく。
コンビニではアルバイトの女の子がまだ働いていた。顔を見た瞬間から女の子は笑顔でお辞儀をしている。きっと師匠を見て笑ってるんだ。決して僕のことを笑っているんじゃない。師匠の先制攻撃
「また、お世話になるよ」
女の子がバックヤードに入っていく。いや、今度は店長必要ないです。普通の買い物だけです。
「いらっしゃいませ」
声と共に店長登場。声が気にならない。何が変わったんだろう?
「今度はあたしたちの酒と肴を買いに来たよ。適当に見繕(みつくろ)って……」
「だめですよ、柴田さん、僕が選びますから、一緒に来て下さい」
手を引っ張ってお酒売場に急ぐ。女の子は気にせずに笑っている。師匠は理由がわからないようだ
「どうしたんだい、店の人に聞くのが一番だろう」
「ここはそういうお店じゃ……」
「日本酒ですか?」
すぐ後ろから店長が声を掛けてきた。どうやらそういうお店になってしまったようだ。師匠は勢いづいた
「そうなんだよ、明日に残らないように水口(みずくち)で酔い覚めのいいやつをたのむわ」
「それでしたらこれかな、冷やがいいですよ」
店長が勧めたのは、あまり日本酒を飲まない僕が知らない銘柄だった。師匠はビンやラベルを眺めて
「こりゃ旨そうだ、楽しみだな」
「あとはおつまみですか?」
「夕飯(ゆうめし)代わりだから少し腹にたまるのがいいな」
「イカ煮の缶詰とかどうです、あと竹輪と胡瓜ですかね、日本酒だったらわさび醤油ですね」
「全部もらおうか」
「ありがとうございます、それと塩むすびはこのお酒に合いますよ」
師匠はニヤリとしながら店長を見ている
「あんたも酒飲みだね」