夢幻圓喬三七日
今日の朝に聴いた場面だった。父親は金太の名前は出さないが、何とかして祖父母の家の中へ入ろうとしている。しかし、これも、お祖父(じい)さんに断られる。床下へ潜り込もうとして、見つかってつまみ出されたり、屋根から落ちそうになったり、父親が起こす騒動に『おゆうぎしつ』の全員が大笑いだ。
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「やっとの事で許されまして、親子三人抱き合って喜びました。子どもの子別れでございます」
◇ ◇ ◇
サゲると、全員から盛大な拍手が起こる。墨芯堂のご主人も美代ちゃんもそして夕太郎さんも目を赤くして笑いながら拍手をしていた。
清美さんの閉会の挨拶で園児とお母さんが帰っていく。僕も師匠と共にみんなを見送ろうと門のところまで出て行く。「今日は駅までお父さんを迎えに行こうね」「夕御飯はお父さんの好きなお魚にしようね」「冬休みになったらお爺ちゃんのところへ遊びに行こうか?」そんな園児とお母さんの会話を聞き、晴れやかな気持で『おゆうぎしつ』に戻ると、四人の園児が寂しそうに残っていた。預かり延長の子どもたちだ。
「失敗(しくじ)ったな。この子どもたちのことを忘れていたよ。とんだお笑いだな」
師匠が悔しそうに呟く横をすり抜けて、墨芯堂のご主人と夕太郎さんが園児たちに近付いていく。墨芯堂のご主人は矢立(やたて)を取り出して、画用紙に歌舞伎の隈取を描く。園児もご主人を真似てクレヨンで描き始めた。夕太郎さんもクレヨンで絵を描いて園児の注目を集めた。師匠も慌てて着替え直し、二人に混じって園児に小咄を聞かせ始める。
やがて、女の子が夕太郎さんを花壇に誘った。部屋を出て行く二人に、僕も付いて行くことにする。花壇では夕太郎さんが女の子に、花の名前が書かれている名札を指差して、丁寧に説明し始める。
「花が咲いたときのことを思い浮かべて、名札を挿す場所や名札の大きさ、色なんかも考えて作ってごらん。花も喜んで、きっと綺麗に咲いてくれるよ」
上手く説明するもんだな。女の子も一生懸命に考えて名札を差し換えている。いつの間にか美代ちゃんと清美さんが僕の隣に並んでいた。
「昨日、小石川植物園の人は行きましたか〜?」
美代ちゃんが夕太郎さんに訊ねる。
「小石川植物園ですか、そうだったかなぁ、ちょっと待ってて下さい」
夕太郎さんは、バッグから名刺を取り出すと、読み上げ始めた
「東京大学大学院理学系研究科附属植物園、って書いてありますよ。これって小石川植物園のことだったんですか?」
「中の人たちは東大植物園っていうみたいですから、そうでしょうね。それにしても長い名前ですね〜」
「始めはびっくりしましたが、事情を聞いたら、一昨日(おととい)の写真にムニンキヌランが写っているかも知れないから、調べさせてくれといわれて、僕もムニンキヌランなんて初めて聞きました。父からはなにも聞いていなかったので、よく分からないんです。植物園の人は今日も行っているはずですよ。万が一、悪戯でもされたら大変だって言っていましたから」
夕太郎さんは人付き合いが苦手って、不動産屋さんは言っていたけれど、ごく普通に話している。日曜日とは大違いだ。これも幼稚園の魔法なのかな。清美さんも会話に加わって「やっぱり、あの綺麗なお庭の方だったんですね」と言っていることから、どうやら夕太郎さんに気づいたようだ。夕太郎さんも照れ臭そうに挨拶をしている。
僕だけ遊戯室に戻ると、師匠は江戸弁を話して園児を笑わせている。墨芯堂のご主人は園児が書く隈取を横から指導している。僕は墨芯堂のご主人に声を掛けた。
「お疲れさまです」
「自慢じゃないが、俺は孫をあやすのが下手なんだ。ここで練習させてもらっているよ。そこは力を抜いて、息を吐きながら上に持っていくんだ」
園児に厳しく教えているご主人の様子を、園長先生は嬉しそうに眺めていた。
昼寝の時間、おやつの時間、そして再開される指導の時間。園児たちは迎えが来るまで、真剣に過ごしたようだった。
迎えに来たお母さんと帰るときの「また明日〜」が元気よく聞こえていた。園長先生と清美さんからお礼を言われ、墨芯堂のご主人と夕太郎さんは園を後にする。
僕たち三人は蕎麦屋でささやかな祝杯をあげることにした。
「しかし、あの二人に助けられたな。残された子どもたち四人の、寂しそうな顔を見たときは、消えたくなったよ」
師匠が今日のことを思い出して、顔をしかめている。でも、口調は嬉しそうだった。
「やっぱり確信しました。幼稚園での目標みたいなものが園児には必要ですよね」
美代ちゃんは持論に更なる自信を深めたようだ。師匠も強く頷いている。
「子どもの頃に打ち込んだことは、いつまでも身体や心のどこかにしっかりと残るからね」
「お待たせしました〜」
「注文してないですよ」
「これもメニューに載ってないもの。これは俺が拵えた焼き御握りだよ。じゃこ山椒をご飯に混ぜてをうちの蕎麦汁をつけながら焼き上げたんだ。師匠も食べてくれよ」
そう言った大将の顔は少し寂しそうだった。師匠の噺が明日で最後となってしまう事への悔しさなのか、二度と日本の土は踏まない、と言った師匠への惜別の想いなのか、僕にはどちらだか分からないが、焼き御握りはとても旨かった。
泣いても笑っても 明日が師匠の最後の日となってしまった廿日目が 終わろうとしている