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夢幻圓喬三七日

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「少しはどころじゃなくて、墨芯堂さんは今の時代にあれだけ書ける人はいないって言ってましたよ」
「そうなのかい。恕軒先生には厳しく教えられたから、いまだに先生の癖が残っているのかな。先生は東京大学でも漢学を教えた偉い人だったんだぞ」
 実を言えば漢学がどんな学問なのか僕は詳しくないが、今はそれどころではない。
「それで、朝太郎さんと関係があったんですか?」
「よく分からなかったんだよ。あの人も親からは詳しく聞いていないみたいだし、生まれたときからあすこだから、東京には住んだことがないって言ってたしね」
「でも、何か手がかりはなかったんですか?」
「手がかりといえるか、絵は親父さんも上手かったみたいだし、あの人の絵も見せてもらったけど上手いんだよ。朝太郎も小笠原でかなり描いたりして、絵心があったしね。それくらいかな」
「小笠原って朝太郎さんが行ったんですか? あの時代に小笠原に行けたんですか?」
「ああ、東京にいると怠けるからって、師匠が行かせたんだよ。そりゃ楽な道中じゃないとは思うが、船で行けたよ」
「その小笠原がキーワードですよ!」
「なんだいきーわーどって?」
 あ〜めんどくさい。なんて言い直せばいいんだ……。
「朝太郎さんとあの人を結ぶ鍵ですよ。小笠原がそうですよ」
「何で小笠原なんだい?」
「美代ちゃんが昨日、あの庭で写メを撮っていたでしょう。その写真が課長さんの目にとまって、大騒ぎなんです。なんでも小笠原の珍しい草が写っていたそうです」
「それでかな。死んだ親父さんからは、くれぐれも庭の手入れを怠るなと言われていたんだとよ。朝太郎が小笠原から採ってきたのかな」
「きっとそうですよ。そうに決まってますよ。それで、明日の落語会にあの人は来てくれるんですか?」
「ああ、最初は渋っていたんだが、捻くれた条件を出してな。幼稚園の子どもたちと一緒に、落語を聴いて泣いたり笑ったりしたい。なんて言いやがって。本当に捻くれたやつだよ。姓は師匠の出淵(いづぶち)から替わっていたけど、名前は夕太郎(ゆうたろう)っていうんだぜ。名前まで捻くれていやがる」
 それって結構重要なキーワードじゃないのか? もっと早く聞きたかった。でも、園児と一緒に泣き笑いって、どんな噺がいいのか見当もつかない。
「柴田さんは何を演るんですか?」
「これから拵えるよ。拵え直しだよ。全く捻くれていやがる」
 師匠はそう言って和室へと消えていった。食事の後始末をしていると美代ちゃんからメールだ。

……柴田さんは帰ってきた? これから幼稚園に行くけど一緒に行く?……

……連絡遅くなってゴメン。無事に帰ってきました。幼稚園へは何しに行くの?……

……ゴチャゴチャ言ってないで、来るの? 来ないの?……

 師匠と二人幼稚園へと向かう。幼稚園に着くまでの間に、美代ちゃんの訪問目的がメールで判明した。午後七時までの預かり延長で、残っている子どもたちと、迎えに来られる保護者の方の様子を見たいそうだ。具体的な情報収集なのだろう。何の役に立つかは僕には分からない。師匠も清美さんが言っていた『半日園長』のこともあり、明日は午後から最後まで幼稚園にいた方が良いそうだ。

 外が真っ暗な中、数人の園児たちは思い思いの過ごし方で、時が過ぎるのを待っているようだった。何か物悲しい風景だ。やがて、お母さんが迎えに来て、全員帰って行った。案内をしてくれていた清美さんに師匠が訊ねる。
「ここの子どもたちはご両親は揃っているんですか?」
「はい、在園している子どもたちの両親はみなご健在です」
「それと、私の知り合いを落語会に呼んだんで、一緒に聴かせてやってください」
「それは構いませんよ」
 どうやら師匠は、夕太郎さんのことを、あまり詳しく説明する気はないようだった。僕も、墨芯堂のご主人が落語会に来ることを、清美さんに伝えて園を後にする。三人で蕎麦屋へ移動するまで、美代ちゃんの目は悲しそうだった。

 蕎麦屋では、美代ちゃんが悲しそうにしていた理由を、説明してくれた。
「預かり延長って言葉を聞いたときから違和感があったの。別に言葉を捉えて、揚げ足を取るつもりはないけど、今日見学させてもらって確信できたわ。子どもたちは預けられているの。子どもの意志であそこに残ろうとしていないの。それって少し寂しいわよね」
 海苔と卵焼をつまみに、熱燗を飲んで気持ちと空気が解(ほぐ)れてくると、美代ちゃんはミセス・グリーンのことを楽しそうに話してくれた
「最初は携帯で写メを見せていたんだけど、これを見てから人が変わったように騒ぎはじめてとにかく大変だったの」
 そういって写メを見せてくれたが、薄いピンクの花が写っている画面からでは、ちっとも分からない。美代ちゃんが花の横にある草を指で示してくれたが、細い枝の下に三枚の草が生えているだけで、これが珍しい植物だと言われなければ、見向きもしないだろう。
「これがそんなに珍しいの?」
「でしょ、でしょ、こんなの素人には分からないわよね。でも、課長は一目見て、何か変だって気づいたみたいで、ご主人に電話したの。そうしたら、携帯からパソコンに画像を取り込んで拡大したり、ご主人に添付したりで大騒ぎ。ご主人が今日中に行くっていってたけど、どうなったのかな」
「これが小笠原と関係がある草なの?」
「新婚旅行で行った石垣島のランに似ているけど、少し違うみたいなの。ご主人との話で分かったんだけど、もし本物だったら、今の世の中に存在してはいけない植物みたい」
「そんなに凄いの?」
「まだ分からないわよ。小石川植物園、課長は東大植物園って言ってたけど、そこでも実物を見た人はいないし、写真も数枚しか残っていないみたい。とっくに絶滅した植物だって」
 やっぱり朝太郎さんが小笠原から持ってきた物なんだろうか。師匠も真剣な顔で聞いていた。大将が蒸籠(せいろ)を運んでくる。蒸籠の中でご飯が蒸されて湯気を立てている。鼻孔に染みる山椒の香りが食欲をそそる。
「お待たせしました〜」
「なんですか? 注文してないですよ」
「そりゃそうだろ。メニューに載ってないもの。もらったじゃこ山椒でカアちゃんが作ったんだよ。食べてみてくれ」
「御強(おこわ)ですか? 居残りだな」
 師匠が父のようなことを言っている。

***************
* あたしを御強にかけたな

* へえ、
* 旦那の頭がごま塩ですから

* 落語 居残り佐平次 より
***************

「そうですよ、居残りですよ〜。預かり延長ではなくて、子どもたちが自分から居残りたいと思えるような、そんな幼稚園があってもいいですよね」
 美代ちゃんは、落語の居残りからは想像できない持論を展開した。
 御強をいただいて三人揃って店を出る。師匠と美代ちゃんは、それぞれの想いを胸にしているかのように真剣な顔をしていたが、僕がどんな顔をしているのかは、自分では分からなかった。でも、御強はとても旨かった。
 あと二日 どんな最後になるのか見当もつかない十九日目になってしまった

作品名:夢幻圓喬三七日 作家名:立花 詢