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夢幻圓喬三七日

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十九日目:平成24年12月10日 月曜日



 
 今朝は師匠のどんな声が聞こえるのかな? 耳をすましていると……、いつまで待っても聞こえてこない。おかしいなぁ、どうしたんだろう。リビング、和室……、どこにも師匠の姿は見えなかった。嘘だろ! カレンダーを確認しても、まだ三日、もう三日しかないのか? とにかく師匠が地獄に戻るのは三日後なはずだ。どうしよう? 幼稚園は? 落語会は? どうする・どうする!

 管理人さんにも、コンビニでも、定食屋でも、さり気なく聞いたが師匠が寄った様子はなかった。
 肩を落として部屋に戻ると、テーブルの上に和紙が置いてあるのに気づいた。何だったかなぁ、そうだ楮(こうぞ)の本草紙(ほんそうし)だ。だが、そんなことは今はどうでもいい。これはきっと師匠の書き置きだ。何が書いてあるのかと目を通すと……、……、読めない。漢字だけで仮名(かな)がなく、しかも達筆で、手も足も出ない。深呼吸をして暫く考えていると、思いついた! これが読めるかもしれない人を、僕は一人しか知らない。とりあえず師匠の書き置きをバッグに入れて高輪へと急ぐ。途中、美代ちゃんにメールで師匠の失踪を知らせると、すぐに返信が来た。
 
……柴田さんは充分大人なんだから大丈夫でしょ。それより今はこっちが大変だから、また後で……

 何が大変なんだ。あっちもこっちも訳がわからない。

 以前に来たときよりも早い時間だったが、墨芯堂は開いていた。店に入ると、今日もご主人が不機嫌そうに店番をしている。ご主人の後ろには先日、師匠が書いた色紙が表装されて飾られてあった。僕は怖々と色紙を指差しながら声を掛ける。
「あの〜、以前にその色紙を書いた人と一緒に来た者ですが……」
「自慢じゃないが、うちの店は客が少ないんだ。そんな回りくどい言い方しなくても分かるよ。今日は一人でどうしたんだ」
「実はこの色紙の人が、書き置きだと思うんですが、これを残していなくなっちゃたんです」
 師匠の書き置きを見せると、ご主人は一目見て、
「あの人は漢学の先生かなんかなのか? 今時これだけ書ける人はそうはいないよ」
「それよりなんて書いてあるんですか? 教えてください」
「まあ、落ち着きなよ。俺もこれだけの物は久しぶりだからね」
 奥へお茶を持ってくるように声を掛け、書き置きに向き合った。
「どこかで見たことがある手なんだよなぁ。誰かに似ているんだけどなぁ……」
 ブツブツ言いながら、真剣に読んでくれている。僕は黙ってお茶を飲んでいるしかなかった。
「落語会って書いてあるが、あの人は落語家さんかい?」
「本職じゃないですが……」
「え〜っと、昨日房総で見掛けた若い男は、朝太郎に関係がありそうだから、確かめに行くと。それと、関係が分かったら、明日と明後日の落語会に呼びたい、って書いてあるな。そんな事情だから心配しないで待っていてくれってさ。そんな心配する事じゃないだろう」
 読めなかったんだから心配するでしょう。それよりも、朝太郎って圓朝師匠の息子じゃないか。その関係って、ひょっとして子孫か? 師匠はどこで気づいたんだろう? 桑の木幼稚園といい、昨日といい、やっぱり神懸かるのか?
「それとここからが肝心なんだが」
 まだ何かあるのか、ご主人は続ける。
「おまえさんはこれが読めないから、きっと墨芯堂の主人に頼むだろう。お礼として落語会に招待しなさいってさ」
 そう言ってニコッと笑ったご主人は落語が好きらしい。
「明後日は問題ないですが、明日は幼稚園での落語会なんですよ。小さなお孫さんはいらっしゃいますか?」
「自慢じゃないが、うちは代々晩婚なんだ。去年生まれたよ」
 だったら問題ない。ご主人に二つの落語会のことを伝えてマンションに帰ることにした。師匠の書き置きをご主人は返してくれなかった。変わりにお手製のご祝儀袋を僕にくれた。

 マンションに戻って、やっと落ち着くと、腹が減ってきた。外に出る気力がないので、冷蔵庫のよもぎ饅頭と和風エクレアを昼食代わりにした。賞味期限は無視だ。食後に薄いコーヒーを飲んでいると美代ちゃんからのメールだ。

……やっと少し落ち着きました。いつもは冷静沈着なミセス・グリーンがさっきまで大騒ぎして大変だったの。師匠は見つかった?……

 ミセス・グリーンが大騒ぎ? 想像できない。

……師匠はまだ帰ってないけど、行き先は分かりました。昨日の、庭が綺麗な家に住んでいる若い男の人は、圓朝師匠の子孫かもしれないって、確かめに行ってます。とりあえず安心……

……あら、ミセス・グリーンも昨日のお庭のことで大騒ぎしていたのよ。昨日の写メを見せたんだけど、花は別に珍しい物ではなかったの。それよりも横に写っていた草が珍しいみたいで、小石川植物園のご主人に慌てて電話してたわよ……

……そんな珍しい草なんてあった? 全然気づかなかったよ……

……写真を見ても私たちじゃ分からないわよ。ミセス・グリーンの説明を聞いても、私はチンプンカンプンだったもの。小笠原の凄く珍しい何とかかんとかっていうランみたい……

 美代ちゃんの説明もチンプンカンプンだ。

……それで今は落ち着いたんでしょう?……

……今は興奮しながらも落ち着いて、ご主人と電話で話しています。小石川植物園から、研究員をあの土地に派遣する、みたいなことは聞こえてきたけど、後はよく分からないの……

 そんなに凄い草なのか? でもランって花が咲くんじゃないのか……、よく分からないや。

 師匠が今朝(けさ)マンションを出た時間は分からないが、房総半島までの往復と、朝太郎さんの子孫かもしれない人と会って、何かしら話をする時間を考えても、そろそろ師匠は帰ってくるのかな。きっと朝から何も食べていないと予想して、コンビニで何か買っておこう。
 茶飯幕の内と豚角煮(茹で卵付)弁当を仕入れて、師匠の帰りを待つことにした。

 師匠はタブレットから伸びたイヤフォンを耳に涼しい顔で帰ってきた。外見だけはすっかり現代人だ。
「いや〜。電車でも遠いいね。こいつがあって良かったよ」
 タブレットを片手で振っている。案の定、今まで食事をしていない師匠とコンビニ弁当を食べながら、お互いの顛末を話す
「黙って出て行くなんて酷いじゃないですか。心配したんですよ」
「おまいさんは寝てたようだから一人で行ったんだけど、ちゃんと書いておいたろう」
「何が書いてあるのか読めませんでしたよ。高輪まで行って読んでもらいました!」
「なんだよ、大学出だから読めるだろうに」
 胸に突き刺さった。明治の人に、今の大学生の実体は理解できないだろう。僕だって大学で何を学んだかは理解できていない。
「墨芯堂のご主人が驚いていましたよ。漢学の先生かって聞かれました」
「じょけん先生に習ったからかな」
「だれですか? じょけん先生って」
「信夫(しのぶ)恕軒先生だよ。圓朝師匠に入門したのは七歳のときなんだけど、これからは芸人といえども、読み書きくらいは出来なくちゃいけないと師匠に云われて、本所(ほんじょう)にあった恕軒先生の奇文欣賞堂(きぶんきんしょうどう)に通わされたんだよ。お蔭で少しは出来るようになったんだけどね。ありがたいことだよ」
作品名:夢幻圓喬三七日 作家名:立花 詢