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夢幻圓喬三七日

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十五日目:平成24年12月6日 木曜日



 
 今日も目覚めは師匠の落語で……、って、落語じゃなかった
「いろはにほ、いろはに、いろはにほへとち……」
「いろ、いろはに、いろはにほへ……」
 多分夫婦者だろう男女二人が変な会話をしている。それに線香の香りがただよっている。今まで師匠は節目節目で手を合わせてはいたけれど、今日は何を圓馬さんたちに伝えたのだろう。
「今のはなんですか?」
「昨日途中までだったろ、声を出さないと顔が作れないって話」
「でも、どうして『いろは』なんですか?」
「別にどんなんでも良かったんだけどな。墨芯堂の主人が色紙を頼んだときに云ってたろ『いろは』でも構わないって。それに倣(なら)ってみたんだよ」
 そういえばそんなこともあったなと思いだした。
「それに意味のある言葉だと、誤魔化せるからね。昨日おまえさんが言葉だけで怒ったろ『だから片せっていってんだろ!』って。今から演るからどっちが怒って見えるか確かめてくれないか」
 師匠はそう言うと普通の顔で
「だから片せっていってんだろ!」
 次に
「いろはにほへと!」
 眉間に険が出来て、口元がやや上がった顔は怒って見える。でも、大きな疑問がわき起こる
「その顔で『片せ!』って言った方がより怒って見えますよね?」
「そうやるのが噺家だよ。でもな、『片せ!』って言っちまうと、その言葉で己(おのれ)まで誤魔化されて、顔が出来てなくても満足しちまうんだよ。だから、『いろは』で稽古して、顔と声の調子を合わせるんだよ。特に眉間、易では印堂とか命宮っていうんだけど、圓朝師匠はその作り方が上手かったんだ。それに口元が上手かった。こんな風に言葉に頼らない稽古の仕方があっても良いだろう? 今頃気がついたよ」
「志ん朝師匠も上手いってことですか?」
「芝浜は夫婦者二人だから演りやすかったってのもあるんだろうが、きちんとしてたよ。大勢が一度に出てくる噺はまだ観てないから分からないがね」
 こんど大勢が出てくる噺を観てみよう。師匠の解説の半分も僕は恐らく理解できていないのだろう。師匠はそんな僕への説明を諦めて、和室で一人稽古を続けた。今日の落語会のことよりも、その後の幼稚園のことを考えると、朝食でも昼食でも会話が弾まず、僕には師匠の心の中を想像することしかできなかった。落語会前に風呂で語る師匠の声も、僕の耳には何か遠い木霊(こだま)のように聞こえてくる。
「高いな。多分に求めるが、もそっと負からんかい」
「こんな物はいくつ召(め)しても四文(しもん)で」
「いくつ召しても四文なのだな」
 今日演る予定の『侍の素見』だろうか? 他の演目で聴いたことがある気がするが、頭が良く回らない。風呂上がりに師匠から声を掛けてくれた。
「今の時代の人が聞いて侍に聞こえるかい?」
「きちんと侍に聞こえますよ。どうしたんですか?」
「いや、今まで色々あの機械で聞かせてもらったけど、侍がどれもあたしの耳には侍に聞こえなかったんだよ」
「圓生師匠や小さん師匠もですか?」
「六代目と五代目だったな。聞こえなかったよ。あれじゃ明治のお役人だよ」
「でも、柴田さんの侍は侍に聞こえますよ」
「ならいいんだが、なんで侍の口調が今に伝わっていないんだろうな」
 僕は思い立って、テレビで関東ローカル局を映してみることにした。この時間ならどこかで時代劇をやっているかも知れない。ちょうど連続物の時代劇が放送されていた。師匠に観てもらうと、
「こりゃ、武家言葉を今の人の口調で話してるだけだね。この時代の人はこれが侍口調だと思っているのかい?」
「これが侍の口調だとは思いませんが、慣れてしまって、こんなものかなと……」
「今日の噺は少し心配になってきたな。まあ、今更あたしの口調は変えられないんだけどね」
「柴田さんの口調は大丈夫ですよ。ああ、侍はこんな風に話していたんだなって、分かりますよ」
「だったら良いんだけどね」

 大将の店の二階で、開始まで静かに待つ師匠とは離れて、僕は一階でお客さんを迎えることにした。朝太さんの師匠や圓馬さんが来るし、なによりドラッグストアのオバサンが来てくれる。まだ少し時間があるのにお客さんが集まり始める。早めに来るのは師匠の噺を前方で聴きたい人たちなのか、挨拶もそこそこに二階へと上がっていく。そこへ「落語会はここですか〜?」の声と共にドラッグストアのオバサンが店の格子戸を開けてたずねてきた。大将のどうぞ〜の声で店に入ってくる三人連れ……、あれ!? ドラッグストアの女の子と定食屋のオバサンまで一緒だった。オバサンはその場で唯一の知り合いである僕に向かって話しかけてくる。
「お昼食べたときに話したら是非にって言われて、一緒に来たけど大丈夫?」
「大丈夫ですよ。落語は初めてですか?」
「たまに早起きしたときに観るくらいで、生は初めてなのよ。あなたたちも初めてよね?」
 他の二人が大きく頷いている。この人たちに師匠の侍の素見はどう聞こえるのかな。っと、金玉や男根はどうするのかな? こんなに若い女の子がいるとは……、師匠にお任せだ。
「せっかくですから、今日は楽しんで下さい。僕もご近所さんに落語が好きな人がいると嬉しいですから」
 そのご近所三人組は口々に「楽しみね〜」と二階へと消えていく。開演時間が迫ってきたところで、朝太さんが自分の師匠と圓馬さんと一緒に現われた。大将への紹介と挨拶を済ませて、二階へと上がっていく。多分柴田さんへの挨拶をするのだろうけど、僕はその場にいない方が話しやすいだろうと考えて遠慮した。二階の座敷で開演を待つことにする。座敷ではご近所三人組がやや後方に仲良く座っている。今日も最前列中央はご予約席だった。朝太さんたち三人は最後列にやはり座蒲団を外して座っている。
 大将の口上から静かに師匠の高座は始まった。

◇ ◇ ◇

「てまいどもの方は相も変わらずお古いお噺のみでげして、ただいまは東京と成りましたるその昔、江戸と申しました時分に……」

「……一枚物(いちまいもの)の読売(かわらばん)、今の新聞ですな。これの売り文句が『紙代版行代(かみだいはんこうだい)で只(ただ)の四文(しもん)なり』と売り歩いておりまして……」


「お早いご登城……」
「いや大きに遅刻いたしました」
「市中はいかがでござる」
「さればこれからは町人は暮らしよいそうで今日の米の値段は両に三斗五升……」

 なるほど侍同士が話しているように聞こえる。そういえば師匠が父親は侍の出って云っていたのを思い出した。師匠の耳には侍の口調が残っているんだ。お侍のマクラから本題へと入った
 
「中で褌(ふんどし)を洗っていやぁがる。湯は身体を清めに来るんだ。褌を洗われて汚ねえじゃぁねえか」
「誠に御気の毒様でございます」
「お気の毒じゃぁねえや銭を返(けえ)せ」
「えー……あなたお入りなすったんじゃありませんか」
「陸湯(おかゆ)を浴びて出てきたばかりだよ」

 今度は番台と職人の会話だ。これも怒っている職人と人の良い番台を演じている。職人の怒っている顔に、今朝(けさ)師匠が話してくれた険が印堂に出来ている。けっして大げさでなく顔を見ただけで怒っていると分かる。
作品名:夢幻圓喬三七日 作家名:立花 詢