夢幻圓喬三七日
「翁家(おきなや)さん馬さんだよ。題は同じ文七元結だが、それがどうにも据(す)わりの悪い噺でさ。俺が拵え直そうと思ったんだけど、上手くいかなくてね。東京に戻ったときに師匠の前で演(や)ったんだよ。そしたら、しばらくして師匠が稽古をつけてくれてね。それが志ん朝さんも演った文七元結だよ。師匠は見事に立派な噺に仕上げたのさ。悔しくってね自分が作れなかった噺を師匠が簡単に作っちまったからね。もう自分で噺を拵えるのは三題咄(さんだいばなし)くらいにして、それからは高座に専念したのさ」
もの凄いことを聞いてしまった。これからもこんな話が飛び出すのだろうか。ほかの人に披露できないのがつらい。
「志ん朝さんの御父(おとっ)つぁんの志ん生の噺はあるかい」
そうくると思った。文七元結のマクラで志ん生師匠と圓喬師匠の話をふっているからね
「シーディ……いや声だけですが」
「レコードかい」
「みたいなものです」
「おまいさんの好きなやつでいいよ」
「火焔太鼓(かえんだいこ)か二階ぞめきですね」
「火焔太鼓にして貰おうか」
「終わったら二階ぞめきも掛けますね」
「その前にお湯をもらえるかい、少しぬるくっていいから。それと扇子と手ぬぐいを貸してくれるかな、そばにないと落ちつかなくてね」
キッチンのポットから湯呑みに注ぎ、少しだけミネラルウォーターで割って師匠の脇に置いた。クローゼットから落研時代の、扇子と手ぬぐいを探し出して、これも脇に置いた。
師匠は映像の出ないテレビに向き直って姿勢を正した。CDをセットする。やがて出囃子の一丁入(いっちょうい)りが流れ始める。
再びパソコンに向かい、志ん生師匠のことを少し調べてみる。
前座名が三遊亭朝太(ちょうた)、あれ、これって圓喬師匠と同じ前座名じゃないか。後で聞いてみよう。
それから、ありゃりゃ、圓喬師匠の弟子とも言っているみたいだ。ほんとかな、これも聞いてみなくては。
師匠を見るとやっぱり上下を切っている。志ん生師匠の声とシンクロして動かしている。恐らく師匠の知っている火焔太鼓とは間も台詞も違っているはずだが、すごいもんだ。甚兵衛さんが帰りを急ぐ場面では、小刻みに身体が揺れ動いている。
独り占めするのはもったいない空間だ。父親への電話は火焔太鼓がサゲてからにしよう。今電話をしたら貴重な空間がおジャンになるような気がする。
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* 半鐘? いけないよ、
* おジャンになるから
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* 落語 火焔太鼓
* (古今亭志ん生) より
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「これだけ演ってくれりゃ遊三(ゆうざ)さんも大喜びだ」
三遊亭遊三だ、そのくらいは知っている。
「遊三さんが作ったんですか」
「元は小咄だったんだが遊三さんが滑稽噺に仕上げたんだよ。でも志ん朝さんの御父(おとっ)つぁんの志ん生の方がサゲもいいし、くすぐりもいいね。滑稽はこうでなくっちゃいけないね」
師匠は満足げに話を続けた
「二代目と三代目の志ん生は知ってるが、この志ん生は何代目だい」
「五代目です」
「そうかい、これだけ出来りゃ大きな名前を継いでも良かったのにな」
「志ん生って大名跡じゃなかったんですか」
「初代は大したもんだったみたいだが、あとはまるでなっちゃいなかったね」
出た〜! 辛口批評。
「でも、五代目のお蔭で今じゃ大名跡ですよ」
「芸風は違うけど息子の志ん朝さんは継がなかったのかい」
「継ぐ前に早死にしちゃいました」
「そうかい、もったいなかったな」
師匠は少し目を細め口元を強く結んだ。
「志ん生師匠は圓喬師匠の弟子だって言ってたみたいですが、本当ですか」
「文七元結のマクラでも志ん朝さんが言ってたけど、この志ん生ってだれだろうな?」
「志ん生師匠の前座名は三遊亭朝太っていうんですよ」
「ひょっとして小圓朝(こえんちょう)さんとこの弟子かい?」
「そうです、そうです、明治43年に三遊亭小圓朝さんに入門してます」
「そうか、わかった、わかった、こいつはあたしの弟子だよ」
「えっ、小圓朝さんの弟子じゃないんですか」
「これから説明してやるから、お聞ききなさいな。小圓朝さんが弟子を連れてあたしんとこへ挨拶に来たんだよ」
「その弟子が朝太ですか」
「そうなんだよ。今度三遊亭朝太を名告らせるから宜しく、って言う小圓朝さんの横で鯱張(しゃっちょこば)ってたな」
「わざわざ挨拶に行くもんなんですか」
「普通はそんなことしないよ、単なる前座名だからね。でもね三遊亭朝太ってのは由緒ある名前なんだぜ」
「そうなんですか?」
「そりゃそうさ、なんたってあたしが初代なんだから」
ここはツッコむところだろうか、頷くところだろうかと迷っていると、師匠が続けた
「それはともかくだ、圓朝師匠の一人息子の名前が朝太郎(あさたろう)ってんだよ。読みこそ違うがそこから取って師匠が名付けてくれたのが三遊亭朝太だ。どうだ驚いたろう」
今度は本当に驚いた
「息子の名前を弟子につけるなんて圓朝師匠は何か考えがあったんですかね」
「どちらにも期待してたんじゃないのかな。あたしは一度失敗ったし、息子も結局は失敗っちまったがね」
そうだった、息子は圓朝師匠の晩年に廃嫡(はいちゃく)されている。
「でも圓喬師匠は許してもらったんでしょ」
「柴田だ」
くそ!完全にノーマークだった。
「それで、連れられてきた朝太に言ってやったんだよ、こうしてわざわざ挨拶に来てくれたんだから、あたしの弟子も同然だってね」
「朝太さんは何か言ってましたか」
「嬉しそうに涙ぐんでたよ。ほんとはあたしの弟子になりたかったんだろうけど、あたしは肺病で今日死ぬか、明日死ぬかって思ってたからもう前座は取ってなかったからね。皆さんに可愛がられる噺家になんなさいよ、とも言ってやったな」
「そうなんですか」
「さっきのレコードを聴くと、どうやら可愛がられたみたいだね」
「亡くなって40年近く経ってますが、未だに可愛がられていますよ」
「そいつは良かった。あたしや朝太郎のようになってもらいたくないからね」
師匠は寂しそうに呟いた。少しだけ部屋の温度が下がったような気がした。
「志ん朝師匠も前座名は朝太なんですよ。ひょっとして親子で柴田さんのお墓に報告したかもしれませんね」
「だとしたら嬉しいな。親子二代あたしの弟子だ。師匠の圓喬と違い、皆さんに期待されて可愛がられた弟子だ」
志ん生師匠・志ん朝師匠聞こえていますか? あなたたちが追い続けた圓喬師匠が認めてくれましたよ。僕は溢れそうになる涙を隠すためトイレに立った。
リビングに戻り二階ぞめきをセットする。師匠はテレビに向かってお湯を飲んでいる。その背中が少しだけ大きく見えた。
僕は父親へ電話をかけるため寝室へと向かう。話す内容を頭の中でまとめ、これなら大丈夫だと自分に言い聞かせて携帯電話を繋げた。
父親との話は時間はかかったが、なんとかまとまりリビングに戻ると、二階ぞめきはサゲにかかっていた。拍手が終るのを確かめてCDを停めると、師匠は感心したように頷いている
「ずいぶん長く拵え直したんだね」
「もとは短い噺だったんですか」