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夢幻圓喬三七日

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 死語だ。化石語といってもよい。今の日本にこの言葉を使う人はいないだろう。
 管理人室では共有部の掃除を終えた管理人さんが一服していた。僕は少し緊張しながら声を掛ける
「先ほどはどうも、紹介が遅くなりましたがこちらはわたしの叔父です」
 管理人さんは、あわててタバコをもみ消している
「ああそうでしたか、わざわざどうも」
「いつもこいつがお世話なって申し訳ありませんね」
 師匠が割り込んできた
「今までろくな挨拶もしていなかったようで、叱り付けたところです。これはお近づきのしるしに、お好きだって聞いたもんですからね」
 タバコを管理人さんに手渡そうとした。これには管理人さんも驚いていた。そりゃそうだろう、ほとんど初対面の人間から、お好きでしょ、と言われてタバコを渡されたんだから。しかも普段吸っている銘柄だ。
「こんなことされては困ります」
 管理人さんの対応は当然だ。師匠がどうこれを収めるのか、御手並拝見だ。
「ご挨拶が遅れたお詫びと、あたしが暫くこいつん所で厄介になりますから、これからも色々とお世話もかけます。その迷惑料ですから、どうぞお受け取りになって下さい」
「そうですか、じゃ頂戴します、すいませんね。何かご不便なことがありましたら言って下さい」
 吾妻橋(あづまばし)の文七よりも、達磨横町(だるまよこちょう)の長兵衞よりも、あっさりと管理人さんは受け取った。

***************
* 文七「何(ど)う致しまして
*    左様な金子はいただけ
*    ません」

* 長兵衛「だがね、これを
*     わっちが貰うのは
*     極りが悪いや」

* 落語 文七元結
*  圓朝速記 より
***************

「じゃ今日の所はこれで失礼します、ごめんなさい」
 エレベータホールに進んでいく師匠。僕は管理人さんに目礼をして後を追う。
「なんかあっさりと受け取ってくれましたね、管理人さん」
「そりゃ受け取るさ、お互いの好意の遣(や)り取りなんだから」
「好意の遣り取りですか」
 人生で初めて耳にしたが良い言葉に聞こえる。
「お隣にもご挨拶した方がよいですかね」
 角部屋だからお隣はベビーカーの家族だけだ。
「気がつくじゃないか、だが、ご亭主が居るときにしよう」
 なるほどな、その通りだと思う。ここに越してきた時のことを思い出すと恥ずかしくなる。引越し料金が安いからと平日にガチャガチャと引越しを終えてから、ご主人の留守に挨拶に行ったんだ。挨拶の品はなんにしたんだっけかな。そうだ、石鹸にしたんだった。しかもごく普通のやつだ。穴があったら入りたくなる。

 色々考えながら部屋に戻ってくると、
「便所(はばかり)借りるよ」
「そこの二番目のドアです」
 しばらくして、師匠の叫び声に驚いてトイレに飛び込んだ。
 ひとしきりトイレの使い方をレクチャーしたけど、理解してもらえたかな。あの時代はどんなトイレを使っていたのかは知らないが、そりゃ驚くでしょ。いきなり世界最高峰の日本のシステムトイレなのだから。
 師匠は身体(からだ)をモゾモゾさせながらトイレから出てくると、
「いや〜驚いた! 納豆定食よりも驚いた! しかしなんだな、まだ腹ん中に残ってるようだよ」
「大丈夫です、直ぐに慣れますよ」
「まさか便所のことで慰められるとは思わなかったな」
「それよりこれからですが、僕は色々と調べますから、柴田さんは何かしたい事ありますか?」
「さっきのテレビとかいうやつでも見て、今の世の中のことを頭に入れとくかな」
「あっそうだ! 他の人の落語はお聴きになりますか、テレビで見ることが出来ますよ」
 DVDやらCDやらめんどくさい説明は省くことにした。
「そんなことも出来るのかい。じゃぁおまいさんの贔屓にしている噺家でも聴かせて貰おうかな」
「では僕の大好きな古今亭志ん朝師匠の高座を観て貰います」
「しんちょう? 三遊亭新朝じゃなくて古今亭志ん朝は聞いたことないな」
「そりゃぁそうでしょ、時代が違いますよ」
「そうじゃなくって、古今亭志ん朝という名前だよ」
「師匠の頃はなかったんですか?」
「志ん生の弟子なんだろうけど初めて聞いた」
「そうなんですか? 新しい名前なんですね」
 僕は迷わずに志ん朝全集から文七元結(ぶんしちもっとい)をプレイヤーに入れた。師匠はテレビの前で座蒲団に正座をしている。師匠が志ん朝師匠の文七元結聴いているあいだに僕はパソコンで色々と調べることにする。大丈夫だ志ん朝師匠の高座時間八十分間は画面に釘付けになるはずである、と自分に言い聞かせた。

 師匠が亡くなってから、生き返る間の日本と世界の主な出来事をネットから抜き出す。師匠に伝えるべきはそれほど多くはない。詰まるところ災害と戦争の二つだけだ。
 それから師匠のプロフィールも調べる。羽織袴姿だと少し上に見えたが四十七歳の師匠、洋服だと年相応だ。
 ふと師匠に目をやると、頭を動かしていた。
 ひょっとして上下(かみしも)を切っている? しかも画面の志ん朝師匠とは逆にだ。自分で噺をしてるんだと気づいたときには鳥肌が立った。名人と謳(うた)われた噺家のすごさの一端を知った。
 場面は文七と長兵衛の出会いの吾妻橋、申し分ない。しばしこの幸せな空気を味わうことにする。
 圓喬師匠のエピソードもネット上にあるが、あまり先入観に囚われない方がいいだろうと考え、流し読みすることにした。しかし、師匠の興行をどうするかを考える始めるとパソコンの前で手が止まってしまう。それと師匠が言っていた、お銭(あし)を拵えることと合わせて、あとで父親に電話してみることにしよう。
 志ん朝師匠の文七元結がサゲた。
「凄いもんだね、テレビって奴は、寄席にいるみたいだよ」
 そこかよ、凄いのは
「噺はどうでしたか」
「この人はみんなに期待されてるのかい?」
「えっ?」
 意味が良くわからなかった。
「なにね、お客の期待に押されて緊張した所がいくつかあったからね。しかし上手く捌いてたね、立派なもんだよ志ん朝さんは」
 名人といわれた四代目橘家圓喬の口から”志ん朝さん”という言葉が出る。僕は自分が褒められたように嬉しくて、少し目を潤ませながら同意する
「そうでしょう、そうでしょう」
「ああ、大看板だよ、志ん朝さんは。それに八口(やつくち)が開いた着物を着てたね、粋に見せやがる。これで緋縮緬(ひぢりめん)の襦袢(じゅばん)でも着れば若い頃の圓朝師匠だよ」
 何十回も見てきたはずなのに、僕は気づかなかった
「そういえばこの文七元結も圓朝師匠の作なんですよね」
「師匠のお作といえばお作なんだが……」
「なんかあるんですか」
「師匠に教えたのはあたしなんだよ」
「えッ?!」
 とんでもないことを耳にしたのかも
「圓朝師匠に稽古をつけたんですか?」
「そうじゃないんだよ。若い頃師匠を失敗ってしばらく上方にいたんだが、むこうの寄席でさん馬さんが掛けてたのが文七元結なんだよ」
「さんばさん?」
作品名:夢幻圓喬三七日 作家名:立花 詢