夢幻圓喬三七日
「お弁当売れちゃったんですか?」
「自信を持ってお薦めできる商品しか置かないようにしました。これから種類を増やしていきます」
店長が時代に逆らい始めたのか……、師匠は嬉しそうに
「そいつは良いや。頑張んなさいよ」
ハムサンドの食べ比べセットを二つ買ってマンションに戻ろう。
牛乳たっぷり微温めのカフェオレと共に食べ終え、師匠がリクエストした演目をタブレットへ取り込み始めようとすると、僕が図書館で借りてきた本の題名を見て師匠は大笑いした。確かに『これで出世は間違いなし! 会社の宴会盛り上げ術』を借りるのは少し恥ずかしかった。すかさず僕は話題を変えることにした。
「圓生百席でも聴きますか?」
「いや、こっちの方が面白そうだから、お美代ちゃんが来るまでこれを読んでるよ。圓生のはその機械に入れといてよ」
圓生師匠形無しです。美代ちゃん早く来ないかな〜。真田小僧・三年目・三十石を取り込むことにした。ファイル名をわかりやすくつけ直して、取り込んでいると美代ちゃんがやって来た。
「お待たせしました〜」
本当に待ってました。救世主にコーヒー、師匠には白湯を入れテーブルに着くと、美代ちゃんが切符の説明をしてくれる
「これが行きのの新幹線の切符です。11時半東京発ののぞみ号です」
「これグリーン車でしょ。良いの?」
「会社の役員規定が新幹線はグリーン車使用なの。規定通りだから大丈夫よ」
「生まれて初めてのグリーン車だ。嬉しいな〜」
「なんだいグリーン車って?」
「一番良い席のことです。座席もゆったりしているから、長旅でも疲れませんよ〜」
2時間半で長旅なんて言ったら、明治の時代では生きていけそうにない。美代ちゃんはさらに続けて、
「これで驚いちゃいけません、帰りはもっと驚くわよ。じゃじゃ〜ん」
そう言って、復路の切符をテーブルに置いた。なんと、伊丹発羽田着の航空券だった。しかもファーストクラスだ。
「これも役員規定なの?」
「そうよ。国内線は設定の最上クラス、国際線は社長以外はセカンドクラスよ」
「ちょっと、お二人さんの話がよく分らないんだが、これは羽田までの切符かい」
「あっ、失礼しました。これは帰りの飛行機の切符です」
美代ちゃんが答えてくれた
「飛行機って、今は飛行機にも乗れるのかい?」
「そうですよ。皆さん普通に乗ってますよ。柴田さんは乗ったこと無いんですか〜?」
「米国(アメリカ)で玩具(おもちゃ)みたいのを作ったと聞いた事はあるんだが、今は普通に乗れるんだな」
「柴田さんは飛行機大丈夫ですか?」
美代ちゃん、その質問の回答を期待するのは無理でしょ。師匠は飛行機を見たこともないんだから。
「飛行機に乗るのに身体検査かなんかがあるのかい?」
師匠の疑問はもっともだ。
「身体検査なんかありませんよ〜。ただ耳がキーンってなりますから、『耳抜き』をしないとつらいですよ」
「なんだいその恐ろしい名前の奴は」
「高速エレベーターとか海に潜るとなるじゃないですか?」
だ・か・ら、美代ちゃん、師匠はそういう経験は……と、そこで美代ちゃんは気づいたみたいだ。
「これから耳抜きの練習に行きましょう。近くに何かない?」
「東京タワーとか都庁かな? 近くないけど」
「遠いいわね。パソコンで都内の展望ロビーを検索してみて」
検索すると、JRの実家最寄り駅に区の高層施設ビルがあった。たまに落語会なども開催されているみたいだ。早速三人で出掛けることにした。
コンビニの店長に明日の時間を伝えて、駅に向かう。師匠は店長に「帰りは飛行機なんだよ」と困ったような口調で、嬉しそうに話していた。美代ちゃんは何かを買ってポケットに仕舞っている。バイトの女の子は「お土産期待していま〜す」と言って、店長に睨まれていた。
それほど高層ではない施設だけど、展望エレベーターは高速だった。そして、耳がキーンとなる。
「おお、耳がきーんとなるな。これはどうしたら治るんだい」
「つばを飲み込むとか、鼻をつまんで息むとかですが、慣れるまでは、これをどうぞ」
美代ちゃんはそう言って、師匠と僕に塩飴を渡してくれた。コンビニでこそこそ買っていたのはこれだったのか。それから三回エレベーターで練習をして、師匠も耳抜きに慣れたようだった。
マンションに戻って、美代ちゃんは明日からのホテルの予約、僕は落語をタブレットへ取り込み始めた。師匠は『これで出世は間違いなし! 会社の宴会盛り上げ術』を楽しそうに読んでいる。
大阪支社からも繁華街からも近いホテルに予約が取れたようだ。師匠は和室、僕はその隣の洋室にしてくれた。会社でもよく利用するホテルで、色々と融通も利くようだ。美代ちゃんがホテルの件を同期の瀬尾さんにメールで知らせ終わると、そろそろ朝太さんとの待ち合わせ時間だった。美代ちゃん一人で迎えに行ってくれるとのことで、師匠と僕はお隣に留守のご挨拶に行った。
しばらくすると、美代ちゃんは酒瓶と風呂敷包みを持った朝太さんと一緒に戻ってきた。
「カミさんの手料理で申し訳ないですが、それとお口に合いますか日本酒をお持ちしました」
重箱に入った料理をよばれてお酒に少しだけ口をつけると、師匠と朝太さんは和室にこもった。先ずは師匠が一席『執拗(ごうじょう)』を演るようだ。和室から流れてくる師匠の声がリビングを包み始める。テーブルには朝太さんの奥さんの花見弁当のような手料理、目の前には美代ちゃんが……、なんて幸せな空間なんだ。美代ちゃんもテーブルに両肘を付いて、うっとりとした顔で僕を見ている。と思ったが師匠の噺に耳を傾けていた。師匠は短い割に登場人物が多いと言っていたが、その通りだった。大勢の会話が乱れ飛んでいる。しかし、どんな人なのかは、しっかりと分かる。声だけで人物の年齢や性格を演じ分けている。それどころか職業までもがこちらに伝わってくる。四代目橘家圓喬の名人芸、朝太さんに伝わることを願う。
「……やがて御鉢(おはち)が廻るといけない」
サゲた。続いて朝太さんの声が聞こえてくる。時々師匠のアドバイスを挟みながら、懸命に朝太さんが噺を覚えている。和室から聞こえてくるのは登場人物の声ではなく、朝太さんの声だ。師匠の「目が……」、「口元に……」、「舌先を……」、「顎は……」などの声が聞こえてくる。突如、年寄夫婦の声が聞こえてきたが、すぐに朝太さんの声に戻ってしまった。今ん所をもう一度という師匠の声で、年寄夫婦の声が蘇る。そんなことが何度も繰り返された。和室から二人が戻ってくると、和室は暖房がないのに、朝太さんの顔は汗にまみれていた。美代ちゃんが手近にあった布を朝太さんに渡すと、風呂上がりみたいに気持ちよさそうに顔を拭いた。よく見ると、それは師匠の六尺の余り布だった。
「お疲れさまでした〜。おひとつどうぞ」
美代ちゃんが師匠と朝太さんにお酒を注いで、酒宴の再開だ。
「朝太さん、柴田さんの落語どうでしたか〜?」
この遠慮のなさが、美代ちゃんの魅力の一つでもある。