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夢幻圓喬三七日

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十日目:平成24年12月1日 土曜日



 
「……一体どういう訳で」
「なにこれは全体私どものお竹が良くないので……」
「変だぜ、お竹さんがどうしたんで」
「自分の用を亭主にしてもらい……」

 朝から何を揉めているんだと思ったら師匠の稽古だった。これが『執拗(ごうじょう)』という噺なのかな。確かに男女が揉めているように聞こえる。凄いもんだな、師匠の話芸は
「おはようございます」
「おはようさん。今日は大阪旅行に必要な物を買いに行こう」
「何を買うんですか?」
「この時代の旅行に必要なものがわからないから、河井君に選んでもらおうと思ってね」
 今の時代、旅行に必要なものって何かあるかな? 着替え以外には特に思い浮かばない
「着替えだけで特に必要ないと思いますよ」
「そうなのかい。でもまあいいや。とにかく買いに行こうよ」
 師匠は遠足前の子どもみたいだ。馬巣亭遠足は僕だ。食事の後に、ドラッグストアに行くことにした。支度をして定食屋に向かう。暗い管理人室を見て、休み前の挨拶が出来なかったことを反省した。
 
 定食屋で師匠は嬉しそうに、明日から大阪に行くことをオバサンに話していた。これから旅行用品を買いにドラッグストアに行くことまで話している。きっとオバサンはお土産を期待していると思う。師匠のことだから絶対にお土産を買うだろうけど。
 ドラッグストアでも、先日のサラシのオバサンに早くも、
「明日(あした)ッから大阪なんで必要な物を買いに来たよ」
 師匠が嬉しそうに話しかけている。
「あら、お仕事ですか?」
「ああ、向こうで落語を演るんだよ」
「落語家さんだったんですか?」
「本職じゃないけど、まあ、道楽でね」
 師匠が本職じゃなければ、この世から本職の噺家はいなくなってしまいます。
「一度聴いてみたいわ」
 お世辞だとしても嬉しいオバサンの一言に師匠も笑顔で答える。
「今度こっちで演るときには声を掛けるよ」
 結局、何も買わなかった。師匠は大阪行きを伝えたかったのだろう。師匠の喜び方を見ていると、昔の人が東京から大阪へ行くのは大変なことだったんだろうと考えた。
 
 部屋へ戻り、母に電話で足袋と肌襦袢の洗濯の仕方を聞いた。明日から師匠と二人で大阪へ行くことを伝えている横で、師匠が満足そうに頷いていた。もちろん、父親と蕎麦屋の大将にも伝えるように付け加えると、横で聞いていた師匠の笑顔が更に輝く。電話を終えると師匠は風呂へ、僕は洗濯だ。
「♪♪♪猫じゃ猫じゃと おっしゃますが〜 猫〜が〜 猫が 下駄はいて 杖ついて絞りの浴衣で 来るものか〜 オッチョコチョイノチョイ  オッチョコチョイノチョイ♪♪♪」
 かなりご機嫌で歌っている。風呂上がりの師匠に聞いてみる
「面白い唄ですね」
「チョウチョトンボの替歌だよ。芸者のことを猫って云ってたからこんな替歌が流行ったんだよ。今日はこれからどうするね?」
「図書館に行きませんか? 大阪までの新幹線、あっ超特急列車の中で聴いてもらう落語を見繕いましょうよ。近くに大きな図書館がありますから、落語関係の本が何冊もありますよ。その中からいくつか演目を選んでいただいて列車の中で聴きましょう」
「列車の中で聴けるなんて便利なんだな。それに図書館も近くにあって、良い時代なんだね。あたしらの頃は浅草文庫とか限られた所にしかなかったんだよ」
 ○○文庫って図書館の意味だったんだ。学校で習ったかもしれないがすっかり忘れている
「そういえば、金沢文庫とかもありますよね」
「ああ、そんなのもあったな」
 ぶっきらぼうにそう言い放った師匠の言葉が気になった。僕は師匠になにか失礼なことを言ったのかな。
 それでも、図書館に着くと師匠はなん冊かの落語解説本を選んで、閲覽席でページをめくり始めた。僕が貸したペンでメモに熱心に書き込んでいる。僕は師匠が目を通し終えた本を読むことにした。古典の演目について解説した本だった。次の本は昭和の名人と云われた何人かの噺家の解説本だ。上方落語の本にも目を通していた。最後は新作落語の紹介本からメモをして顔を上げた。
「これでいいよ。これだけあれば楽しい汽車の旅が出来るな」
 そう言って僕に手渡したメモには、ざっと見、五十もの演目と噺家が書かれていた。明日の出発までに僕のパソコンから小型の携帯タブレットに入れられるかな。ちょっと頑張ってみよう。僕が借りた本を手に図書館を出る。
「今は閲覧だけじゃなくて本を借りられるのかい」
「ええ、一度に十冊までですが、借りられますよ」
「それじゃ貸本屋は商売あがったりだな」
「昔ながらの貸本屋はほとんど残ってないですよ」
「じゃあ貸本屋の夢なんて噺はもう演れないのかな。あたしの時代には汽車の中にも貸本屋が来たよ」

***************
* 貸本屋の店先に寝ておりました


* 落語 貸本屋の夢
* (橘家圓喬)より
***************

「列車の中で本を貸していたんですか」
「そうだよ。あたしが最後に大阪に行ったときでも、新橋から大阪まで12時間かかったからね。今はどれくらいなんだい」
「東京から大阪が二時間半です」
「茨城から河井君の実家まで二時間以上だって言ってたから、もっと時間が掛かるのかと思ったが、ずいぶん早いんだな」
「駅から駅までですから二時間半ですが、家から大阪のホテルまでだと3時間以上掛かりますよ」
「おい、ちょっと待っとくれよ。大阪では旅館じゃなくてホテルに泊まるのかい? 二万円じゃ足が出るだろう」
「大丈夫ですよ。今じゃホテルよりも旅館の方が料金は高いんですよ」
「そうなのかい。着る物なんかはどうしよう?」
「それで大丈夫ですよ。今のホテルは気軽に利用できますよ」
 師匠の時代のホテルは高級で、外国の香りのする場所だったのだろうか?
 
 マンションに戻る前にコンビニで昼食を買い求めると、案の定師匠は店長に大阪行きを自慢げに話していた。店長もバイトの女の子も師匠が大阪で落語をすることに驚いていたが、そこはこだわりの店長だけあって、
「東京駅の駅弁よりもデパ地下の弁当の方がいいですよ。老舗料亭のものとか、築地直送のマグロ弁当とか色々楽しめますよ」
「デパートの地下ですね。少し早めに行って探してみます」
 上手く切り抜けた。師匠も理解したみたいで
「そりゃ楽しみだね。そのデパ地下にはお酒は売ってるのかい」
「売ってますよ。新幹線の中は暖房が効いていますから、冷酒の方が……、そうだ、泡盛はお飲みになりますか?」
「昔九州に行ったときに飲んだな」
「お嫌いでなかったら、泡盛をですね、水筒はお持ちですか?」
 僕に聞いてきた。いくら高座名が遠足だからといって、水筒は持っていない。
「いえ、ありません」
「でしたら私のボトルで明日の朝お作りしますので、時間が決まったら教えて下さい。うちが酒屋だった頃、親父の代わりに地方の酒蔵へ行くときなんかに持って行ったやり方です。日本酒よりは焼酎、そして焼酎よりは泡盛で作った方が旨いんですよ。氷を目一杯詰めたボトルに泡盛を入れただけですが、これが旅のお供に最高ですよ」
 聞いているだけで旨そうだ。師匠と弁当売場に行くと、お昼前なのに極端に弁当の数が少なかった。
作品名:夢幻圓喬三七日 作家名:立花 詢