夢幻圓喬三七日
「皆様は下で、ご酒でも召し上がっていて下さいませ。あたしは少し朝太さんと話してきます」
そう言い残し、朝太さんの控室へと入っていった。残された僕たちは、仕方なく下の店でお酒を飲みながら待つことにしたが、居心地が悪い。お酒も、会話も進まないまま時間だけが過ぎる。
「しかし、師匠の後で演りにくいのはわかるが、もう少し根性を見せてもらいたかったな」
大将が呟くと、朝太さんのお父さんも自分に言い聞かせるように、
「中途半端で申し訳ない」
我々素人はそんな感想を持っているが、きっと朝太さんはプロ故に師匠の凄さがわかったんだと思う。二階に残った二人の会話は想像も出来ないが、朝太さんにとっても師匠にとっても、きっと大切なことが交わされていることだろう。
一時間ほどして、二人揃って私服で降りてきた。師匠の顔は普段通りだが、朝太さんの顔は先程までとはうって変わって、晴れやかだった。その朝太さんが真っ先に口を開いた。
「先ほどは失礼いたしました〜。勉強し直しました」
立ち直りが早いのは若さからだろうか。朝太さんのお父さんも安心したような顔をしている。大将が笑顔で声をかけた。
「どうした、師匠に稽古してもらったのか?」
これには朝太さんよりも先に師匠が答える。
「いえ、あたしの方が稽古をつけてもらいました」
二人の間にどんなやり取りがあったのか、師匠は他の人に言うつもりはないらしい。師匠は落語には厳しくって言っていたけれど、きっと昔とは違ってきているんだ。驚いている朝太さんをよそに、
「稽古上がりのご酒をいただきましょう。これが楽しみで稽古をしているようなもんです」
とぼけて輪に加わり、お酌を僕に促している。朝太さんも加わって、ついさっきまでの重苦しい雰囲気とは違い、楽しい酒宴となった。
師匠は今日の演目『たらちめ』について、面白可笑しく解説してくれた。最初は清女さんの言葉がわからずに演じていたが、言葉の意味を調べると、なるほどこれは相思相愛で演じなければいけない、と考えを改めたことや、この噺の上方での演目は『延陽伯(えんようはく)』といって、そちらは鶴女(つるじょ)さんで演じられていてサゲが違うこと。
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* 隣までボォボォ火ぃが
* 燃えて来たぁるのに
*「おい、おいお〜〜い、
* なに、わらわの姓名なるや
* わらわ父は……
* あつ、熱ぅ、あつ、あつ」
*
* 落語 延陽伯の上(じょ)
* (上方本来のサゲ)より
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その鶴女さんには修身の教科書にも載ったモデルがいたこと。そして上方では続編があり、その粗筋をこれまた面白く話してくれた。
朝太さんは自分の師匠から、その続編の稽古もしてもらったことがあるそうだ。
「一月の余一会に是非、柴田さんにもお越しいただきたいのですが」
その朝太さんが師匠に問い掛けている。一月の話を持ち出したのは、詳しい事情を当然ながら、知らないのだろう。師匠はやや戸惑いながらも、
「そのころあたしは日本にはいないと思うんですよ」
その場にいた全員が「えっ!」と驚いている。もちろん僕も別の意味で驚いた。何も正直にそんなこと言わなくてもいいのに。真っ先に大将が問い詰める。
「日本にいないって一体どこに行くんだい」
「ニュージーランドでキウイの農家をやるんです」
へっ!?
師匠はついさっき知ったばかりの国をあげている。コンビニでフルーツを買わなかったら、中国でパンダの調教師とでも言うつもりだったのだろうか。
「何も外国へ行かなくても日本でもキウイは出来るだろう」
「いえ、やっぱり本場でなければ、本当に美味しいキウイは出来ないと思うんですよ」
師匠は無理矢理に話を作っている。付け焼き刃は剥げやすいと言うから大丈夫なのかな。
「それにしても、落語会は止めちまうのかい」
「はい、あちらでは稽古だけになりそうです」
「稽古だけなんてもったいねえな。時々は日本に帰ってきて落語会をやるんだろ」
「いえ、あちらに骨を埋める覚悟です。それにあたしの落語は朝太さんが受け継いでくれますよ」
いきなりその朝太さんが目に一杯の涙を溜めて叫んだ
「だめですよ師匠。まだまだ教えていただきたいことが沢山あるんですから」
「なに、大丈夫だよ。朝太さんはもう心配いらないよ」
この一言で朝太さんはポロポロ涙をこぼし始めた。隣に座ったお父さんまで涙ぐんでいる。
「明日も稽古をつけて下さい」
朝太さんの懇願に師匠は思わぬ答を返した。
「明日はダメなんだよ。河井君の恋人の会社で忘年落語会なんだよ」
それまでの湿った空気が一気に乾いた。なにもこんな席で、しかも父親の前で言わなくてもいいでしょうに。
「誠に恋人がいたのか?」
早速、突っ込んでくるし……
「友達だよ、友達。柴田さんも変なこと言わないで下さいよ」
「ありゃ、皆さんには内緒だったのかい? そりゃ失礼した。でも、お父さん、ご安心下さい。比翼連理(ひよくれんり)までは後一歩ですから」
「そんなことより、私も一緒に行ってはいけませんか?」
朝太さん! そんなこと、とはなんですか! そんなこと、とは。そんなことを言う人は連れて行けません
「よその会社の忘年会ですし、いくら落語をやるからといっても……」
「そんなこと言わずにお願いします。お二人の仲を取り持ちますから、お願いします」
「じゃあ、まあ、ちょっとメールで聞いてみます」
美代ちゃんにメールでたずねると、すぐさま部長さんに確認をしてくれて、あっさりとオーケーが出た。
「大丈夫みたいです。その代わり忘年会では盛り上げてほしいとのことです」
「まかせてください。それで根多は何を演られるんですか?」
本当に任せて大丈夫かな。盛り上げは問題ないと思うんだけど、もう一つの仲を取り持つ方は大丈夫なのか。
「柴田さんは圓朝作の福禄寿を予定しています」
「あまり演る噺家は少ないですけど、さん喬師匠や三三(さんざ)師匠がたまに掛けてますね」
朝太さんはさすがに現役の噺家です。最近の情報にも長けています。
「ほう、後で聴かせてもらえますか」
師匠は僕に向けて、リクエストをくれた。父も福禄寿に興味を示して師匠に訊ねる。
「師匠は圓生百席はお聴きになりましたか? 確か福禄寿は入ってなかったと思いますが、圓朝の作はかなり入ってますよ」
「いいえ、聴いたことはありません。是非聴いてみたいですね」
「でしたらお貸ししますよ。これからうちまで取りに来られますか?」
「いえ、今日はもう遅いですし、明日和服を取りに行ったときにお借りいたします」
そうだった。実家に師匠の高座着を服質に取られているんだった。
その後は、朝太さんと明日の待ち合わせを決めてお開きになった。朝太さんは火焔太鼓の途中で降りてしまった時とは違い、溌剌としていた。
マンションに帰る途中、蕎麦屋の二階で朝太さんにどんな稽古をつけたのかを聞いたが、
「なに、単に茶飲み話をしただけだよ」
とぼけられた。もう一つ今日のたらちめの事も聞いておきたかった。
「たらちめで清女さんの名前ですが、あれが圓朝師匠の呼吸法ですか?」