夢幻圓喬三七日
彼女は翌日の夜、師匠に会うために僕のマンションへ来ることになり、嬉しそうに帰宅していった。その後、父へ連絡をすると、至急蕎麦屋へ来てくれ、とのことだった。いつもの軽口がないことに不安を覚えながら、すでに暖簾を下ろしている蕎麦屋へ着くと、大将と父が暗い顔をして出迎えてくれた。師匠の顔も決して明るくはなかった。
「おお、遅くに悪いな。困ったことになっちまってな。一杯やりながら相談してたとこだ」
大将は僕にお酒を勧めながら話を続ける。
「実はこないだも話したと思うんだが、うちでは知り合いの二つ目が余一会をやってるだろ? そいつの親父さんが、昨日の師匠の鰍沢を聴いててな」
嫌な予感がする。とっても嫌な予感だ。きっと的中する。話の続きを怖々(こわごわ)聞く。
「よせばいいのによ、その息子に電話して発破をかけたんだよ。素人でもこれだけの噺をする人がいるのに、お前は何だ、って」
予感的中です。このあとの展開も想像できるが一応聞いてみることにする。
「その二つ目の人びっくりしたでしょう?」
「びっくりしたというより、信じないんだよ。素人にそんな噺が出来るわけがない。俺に活を入れるために騙している、なんて言ってるんだよ。親父さんは決して大げさにいった訳じゃあないんだがな」
「まあ、普通は信じないでしょうね。柴田さんの噺を聴くまでは」
「そうなんだが、二つ目は妙に熱くなっちまってな。俺にも聴かせろ。いや、俺と落語で勝負だ、とまで言ってるみたいなんだ」
ここまでは、お約束通りの展開です。ここで師匠が口を開いた。
「落語ってのは勝負事じゃあないですよ。勝った負けたじゃなく、上手い下手だから稽古をするんですよ。賭事にしちまったら落語に申し訳けがないでしょ」
「さすが師匠だ、俺もその通りだと思うんだが、なにせ頭に血が上っちまったようで、きかねえみたいなんだよ。せっかく古今亭の出世名をもらったのに、ここんところ伸び悩んでるからな」
げっ、これは予想できなかった。その名前を訊ねると当然のような答が返ってきた。
「朝太だよ。古今亭朝太」
ここで師匠の目の奥が光った。
「こうなったのもあたしの責任でもありますから、一度その朝太さんとやらと、比べっこをしましょう」
「えっ、師匠いいのかい?」
「頭を冷やして精進してもらうためにも、それがいいでしょう。ただし、大げさになるといけませんから、お客さんはここにいるお三人と、朝太さんの御父(おとっ)つぁんだけにしましょう」
師匠は優しいなぁ。今の朝太さんが何代目かは分からないが、初代朝太として放ってはおけないのだろう。
「大勢の前で恥をかかせないよう、気を遣ってもらって悪いね。連絡してみるよ」
その後、大将は朝太さんの父親と連絡を取り合って、三日後の木曜日、店が終わってから二人会(ににんかい)を開くことが決まった。
大将と父に納豆のお礼を言われ、マンションに戻った。
「柴田さん、なんか変なことになっちゃいましたね」
「なあに、この時代の本職の前で噺をするのも一興だよ。あたしの噺がどこまで通用するか楽しみだな。それより、おまえさんの方はどうなったんだい。彼女とは上手くいったのかい」
「それがですね、柴田さんのことは信じてくれたんですが、自分も柴田さんに会ってみたいと言って、明日の夜にここへ来るんですよ」
「ほう、良かったじゃないか。あたしも会ってみたいよ。河井君の好い人に」
「まあ彼女には正直に話しましたから、あれこれと話を合わせなくてもいいんですが、落語はほとんど知らないので、色々失礼なことを言うかもしれません」
「そんなことは構わないが、落語が好きじゃないのか」
「好き嫌いより、ほとんど聴いたことがないと思います」
「そりゃ河井君の責任だな。寄席に連れて行かなきゃダメだぜ」
「いつもは何か美味しいものを食べて、ぶらぶら二人で歩くことが多いですね。彼女は仕事柄食べ物に興味がありますから」
「どんな仕事なんだい。女の板前かい」
「違いますよ。会社が食品関係の商社、あっ、問屋みたいなのをしています」
「会社勤めとは凄いね」
「今の時代はほとんどの女性は会社に勤めますよ」
「いい時代なんだな。東京がこれだけ立派なのもわかるよ」
僕には胸を張って師匠の言葉を受止める資格はない。師匠と僕の間に生きた人たちが頑張ったからだろう
「それと、今の時代は女性が強くなってますよ」
「昔っからご婦人は強いよ。それはこの時代だけじゃないよ」
「それもそうですね」
「朝太の噺を聴きてえんだが」
さすがに地味な二つ目の動画はネットに少ない。協会の紹介ページと動画サイトに一本づつあるだけだった。プロフィールも確認する。
とにもかくにも事態が収束しそうな方向で動き出したのかな? の五日目だった