夢幻圓喬三七日
五日目:平成24年11月26日 月曜日
「どうも素敵〜」
師匠の声で目が覚めた。やっぱり稽古をしている。
「あれをくれるのかい、わっちに本当かい」
何の噺だろう。ここで師匠の声が、寝室まで聞こえてきていることに気づいた。日に日に師匠の声は通るようになっているんだ。リビングに行き師匠にたずねる
「声が遠くまで届いているように思んですが」
「気づいてくれたかい。あたしも嬉しくってね。肺の病が治ったお蔭で色々稽古できるんだよ」
そう言えば師匠の死因は肺病だった。生き返って治ったのだろうか。
「それで、いろんな声を試しているんですか?」
「ああ、圓朝師匠の呼吸までもう少しだよ」
「圓朝師匠の呼吸ってそんなに難しいんですか」
「あの呼吸じゃないと出来ない怪談があるからな。怪談だけじゃないけど、特に怪談には必要なんだ。あたしは肺病で出来ない噺があったんだよ」
「そうなんですか。それは楽しみですね。また、聴かせて下さい」
「あたしも楽しみだよ。それと、書き物をするんで、紙と筆を買いに行きたいんだ」
「銀座に大きな文房具屋がありますから、そこにしましょうか」
「あとで綴じて本にしてくれるところだとありがたいな」
オッとこれは難題だ。
「今調べますからちょっと待ってて下さい。綴じるのはその場でしてくれるところが良いですよね」
なかなか見つからなかったが、都内に一店だけあった
「ありましたよ。高輪ですから少し遠いいですが、書いた物を持って行けばその場で綴じてもらえますよ」
「そいつはありがたいね。朝飯を食ったら出掛けようか、途中で明神様に寄っていこう」
納豆屋さんのことをすっかり忘れてた。
「直ぐに調べます」
「なに、行けばわかるからいいよ」
管理人さんは今日からまた来てくれている。
「お久しぶりです。良いお休みでしたか」
師匠の挨拶は上手いなぁ。僕はまたお辞儀だけだった。
「お蔭様で、いってらっしゃい」
管理人さんの声に送られて定食屋へと向かう。
定食屋のおばさんに師匠は、旨い納豆が見つかったら今度持ってくるよ、と声をかけていた。どうか納豆屋さんがまだありますように。
神田明神に納豆の天野屋はまだあった。お参りをしてから、師匠は懐かしそうに大量の納豆を買い込んだ。高輪への道中の会話も弾む。
「書き物って、なにを書くんですか?」
「ちょっとしたご挨拶だよ」
師匠は多くを語ってくれず、会話はあまり弾まなかった。いずれ教えてくれるだろうと、今は引き下がることにする。
高輪へ到着すると丁度昼食の時間になっていて、回転寿司のカラフルな幟に目がとまる
「お寿司でも食べますか? きちんとした店ではないですがお手軽ですよ」
「この時代はきちんとした寿司屋ってのがあるんだな。昔は腰掛け喰いと立ち喰いが半々だったけどね」
師匠は寿司が立ち喰いの時代を生きてきたんだ。回転寿司は気に入ってくれるかな。
師匠は現代の寿司種のほとんどを食べたことがないみたいだった。僕が説明しながら一貫ずつ取り分けて食べ始める。
「玉子焼きを食べるとその寿司屋の腕がわかるって、昔からいわれてたんですか?」
僕はまたもや、中途半端な知識を披露した。
「なんだいそりゃ、初めて聞いたぞ」
「よく食通が言うんですよ」
「ずいぶん半ちくな事をいうんだな。確かにあたしの時代には玉子焼きを売りにしている店はいくつかあったが、自分の好きなもんを喰った方が腕はわかるだろう」
「そりゃそうですね」
何で今まで気づかなかったんだろう。半ちくな自分に嫌になったが、僕の好きな寿司ネタは玉子だった。師匠は旨そうに白湯を飲んでいる。どうやら寿司は満足してもらえたみたいだった。
お目当ての書道具屋はすぐに見つかった。間口は狭いが奥行きがありそうな店だ。入ると奥に頑固そうなお爺さんが店番をしている。師匠はいつも通りに声をかけた。
「ちょいと床本(ゆかほん)を拵えるんで、紙から筆から一揃え欲しいんだよ」
お爺さんは、ホオ、というような顔をして、棚から商品を出してくれる
「だったら、紙はこれだな。筆はこのあたりから選んでくれ。それから、硯と墨はここら辺だな。墨は黒だけでいいのかい」
「ああ、黒だけだよ」
結構なお値段です。紙だけで百枚一万五千円もします。しかも商品名の漢字が僕には読めない。帳簿がマイナスに転じてしまいます。師匠は色々と品定めをして値段に目をとめている
「床本よりはちょいと字が小さくなるから、筆はこれにするか。値(ね)は高輪の泉岳寺か」
「あんた古い言葉を知ってるね。若い頃に爺さんの口から聞いて以来だ。まとめて買ってくれたから端数は切るよ」
頑固な店番のお爺さんなんて言ってすみませんでした。優しそうなご主人です。
「申し訳ないね。それで、書いた物を持ってくれば綴じてくれるのかい」
「表紙を選んでもらってその場で綴じたげるよ。綴じるんなら端のノドと真ん中に小口を空けるからこの下敷があると書きやすいよ。付けとくよ」
「悪いね、じゃあ二三日(にさんち)うちに持ってくるわ」
「待ってるよ」
会計を済ませ、『書道具 墨芯堂』と店名が大きく書かれた紙袋を下げてマンションに帰った。
「納豆は食べるかい。こないだのつまみのお礼だよ。旨かったよ」
コンビニへ寄って店長と女の子に納豆を渡した。管理人さんとお隣にも二つずつ手渡す
「買い過ぎちゃいましてね。よかったらもらってやって下さい」
相手が受け取りやすい言葉を添えている。見習いたいけど……。
さっそく師匠は準備を終えると、和室で正座をして墨をすり始める。
「いい香りがするな。良いもんを選んでくれたよ。この香りだけで上手い字が書けそうだ」
師匠の字は充分上手いんですが、
「ところで床本ってなんですか?」
「義太夫語りが使う浄瑠璃本だよ。勘亭流で書かれてあるんだ」
「柴田さんも勘亭流で書くんですか」
「あんなもん書けるかよ。自己流だよ」
「なにを書くんですか」
「落語だよ。それよりおまえさんは心の準備をしといた方がいいんじゃないのかい」
そうだった。今夜、彼女と話し合うんだった。師匠の邪魔にならないように、時間まで寝室で考えよう。とにかく正直に話すのが一番だと考えた。彼女に信じてもらえるかは、わからない。でも、なんとしても信じてもらわなくては、師匠にも、彼女にも申し訳がない。
「そろそろ僕は出掛けますが、柴田さんはどうしますか」
「納豆を持ってご両親と蕎麦屋の大将にご挨拶でもしてこようかな」
「僕から連絡しておきましょう。一人で行けますか?」
「馬鹿にするなよ。電車賃さえあれば大丈夫だよ」
「そうでした。小銭とお札を何枚かお渡ししておきます。彼女との話がすんだら父に連絡しますね」
「俺で出来ることは何でもするからな、頑張りなよ」
「その時が来たらお願いします」
二人で駅まで行って、師匠を見送ってから反対方向の電車に乗る。師匠の背中を思い浮かべ、彼女との待ち合わせ場所へと、少しだけ重い足を運ぶ。
結論から言うと、彼女は師匠のことは信じてくれたが、師匠に会いたがった。しかし、師匠の方はとんでもないことになっていた。