夢幻圓喬三七日
再び歩き始める。同じ場所を何度か通った。何かを探しているのかな。
見つけたようだ。『寄席 人形町 末広跡』の石碑がビルの入り口に埋められている。僕は黙って手ぬぐいを差し出した。しゃがみ込んで拭いている師匠の背中が寂しそうだった。
「ありがとな。これでいいや。新宿に連れってってくれ」
「わかりました。三十分くらいで着きますよ」
移動中に師匠は末廣の思い出を話してくれた。人形町には他にも寄席は何軒かあったみたいだけど、師匠にとって人形町の寄席といえば末廣みたいだ。その理由を教えてくれる。
「あたしの最後の高座が末廣だし、明治の終りに助演(すけ)を頼まれて上がったんだよ。その高座が自分で云うのもなんだが、良い出来でね」
「そうなんですか。なにを演ったんですか」
「十五日全部違う噺をしたよ」
そうか昔は十五日間で一(ひと)興行だったんだ。
「誰の助演だったんですか」
「圓馬(えんば)さんだよ。因縁があるからね。精一杯の高座をしたよ」
げっ、どうしよう。今日の新宿末廣亭の昼トリはその因縁の名跡を継いだ五代目三遊亭圓馬師匠だ。
木戸銭を納豆定食に換算して驚いている師匠とともに中へと進む。ヒザがわりの太神楽(だいかぐら)が終るまで待ってから椅子席に座る。連休の中日(なかび)で九割の入りだ。師匠はプログラムには見向きもしない。出囃子が聞こえてくる
「圓馬囃子か、懐かしいな」
師匠が隣で少し微笑んでいる。よかった、因縁といっても喧嘩をしたとかではなさそうだ。マクラで師匠がオヤッという顔で少し身を乗り出した。何だろう気になる。短いマクラからの演目は妾馬(めかうま)だ。
噺が進むに従って、師匠の緊張が高まるのが隣の僕に伝わる。そしてその緊張が高座に伝わってゆく。高座の圓馬師匠は最初、こちらに視線をくれていたが、今はわざと外している。それにつれて話し方も平板になってきた。圓馬師匠御免なさい。僕が聞いても出来はあまり良くありません。師匠は背筋を伸ばして聞いているが、その怒りは痛いほど伝わってくる。笑いも感動もないままに途中でサゲてしまった。
怖くて師匠に話しかけられない。実際には10分かそれくらいだったと思うが、僕にとっては長く感じた時間が過ぎて、やっと師匠が話しかけてくれた。
「少し大人げなかったな。悪いことをした」
「どうしたんですか」
「マクラが東京言葉だったんで、名前が東京に戻ったんだと思ったんだよ」
「昔は大阪に行った名前なんですか」
「ああ、それより帰らなくていいのかい。昼の部は終わったんだろ」
「夜の部はあと十五分で始まりますけど、どうしますかもう少しいますか」
「外に出なくても良いのか、夜の部はそんなに早く始まるのか」
「ここは入れ替えなしで、五時からが夜の部です」
「随分早いんだな。それなら、もう少しいるか。便所に行って来るよ」
師匠の話の続きが気になるが、家に帰ってからの方が良さそうだ。また怒ったら若手の噺家はひとたまりもないと思う。
戻ってきた師匠と交代でトイレへ行く。僕が戻ると夜の部の開演だった。
若手の噺と僕にとっては珍しい講談を含めてバイオリン漫談なども楽しんだ。中にはこちらをチラチラ気にしながら演る噺家もいた。中堅噺家のあとの音曲が終わってから二人で寄席を出る。夜の部が始まってからの師匠は落ち着いていて、今の寄席の雰囲気を味わってくれたようだ。
「今の寄席はいかがでしたか?」
「久しぶりに梅が枝(え)を聞いたよ。やっぱりああいうのは寄席か枕許(まくらもと)で聞きたいね」
色っぽい光景を頭に思い浮かべる。師匠の機嫌もすっかり直ったみたいで良かった。このまま、波風立てずに家に帰ろう。
「夕食はどうしますか。何処かで食べて帰りましょうか」
「いや、コンビニで買って、一杯やりながら話そうか。あたしに色々聞きたいことがあるんだろ」
師匠も気にしてくれているみたいなので、お言葉に甘えることにした。
「そうしましょう。ありがとうございます」
「いらっしゃいませ。お久しぶりです」
そう言って迎えてくれたバイトの女の子はバックヤードへと消えて行った。そんなにお久しぶりかな? たしか昨日は来ていないから中一日だ。バックヤードから店長が出てくる
「昨日は来られないから二人で心配してたんですよ」
二人でって女の子も心配してたんだ。これからは毎日寄った方が良さそうだ。師匠はすまなそうに言う。
「わるかったね。寄れると思ったんだが、遅くなっちまってね。一声掛けりゃ良かったな」
外出する度(たび)、コンビニに一声掛ける男。ほかの人間だと危ない人にも思えるが、師匠の口からだと普通に聞こえる。それを聞いた店長が慌てている。
「いえいえ、お気になさらないで下さい。ちょっと旨そうなつまみを仕入れたものですから、食べていただきたくって」
「そいつは楽しみだ。もらおうか」
店長は再びバックヤードに戻っていった。取り置いてくれていたみたいだ。塩むすびを買ってレジに行く。店長がつまみを見せてくれた
「鯖の八丁味噌煮の缶詰と絹モズクです」
女の子が横から口を挟む
「両方とも味見しましたが美味しいですよ」
店長が照れ臭そうにしている。味見をして勧めてくれたのが嬉しい。師匠も嬉しそうに、
「それじゃ、酒が足りなくなるといけないな。一本貰っとくか」
女の子が酒売り場に急いだ。
たしかにモズクも鯖も旨かった。細めのモズクは喉越しが最高だし、鯖は骨まで旨い。師匠も嬉しそうに食べている
「あの店長はやっぱり酒好きだな。酒飲みのツボを心得ているよ」
BGM代わりにテレビをつけようとすると、師匠が断った。
「それより、色々聞きたいんだろう」
「ええ、今日の圓馬師匠のことです」
「わかってるよ。どこから話そうかな。やっぱり、圓朝師匠のことからだな。長くなるよ」
師匠は、時にお酒を見つめ、時に百年前を思い出すかのように遠くへ目を向けながら、三遊派と二代目三遊亭圓馬師匠の悲しい話をしてくれた。そして圓喬師匠も東京の寄席から忘れ去られようとしていたこと。師匠の話と、僕がパソコンで調べながら、師匠に伝えたことも含めて書き残そう。
明治24年6月、三遊亭圓朝は当時の席亭や五厘(ごりん)、いわゆる寄席のマネージャーたちの横暴に業を煮やし、政財界人の後ろ楯を得て、独立した寄席での興行を計画していた。しかし、この計画は一部門弟の口から席亭に伝わることとなり、席亭側の切り崩しにあってしまう。歴史は繰り返す、である。
圓朝の最大の後援者であった藤浦周助(後に三遊宗家を自認する藤浦周吉の父)がその年の1月に亡くなっていたことも痛かった。
もはやこれまでと考えた圓朝は、自分はこのまま引退するが、門弟たちには今まで通り寄席に戻るようにと伝えた。ほとんどの門弟はこの圓朝の言葉に従ったが、中に従わなかった者が三名だけいた。それが圓馬と二代目橘家圓三郎(えんざぶろう)、後の初代橘ノ圓(たちばなのまどか)の兄弟、そして圓喬だった。
三人は東京の寄席を捨てて大阪へと向かうことになる。
心情は理解できるが、聞かずにはいられなかった
「不安はなかったんですか?」