夢幻圓喬三七日
「不安も自信も何も、こんな東京(とうけい)にはいたくねえって思ったのさ。それに圓三郎とは歳も近かったし、決して他の師匠にはつかなかった生粋の圓朝師匠の弟子だったからな。そういう門弟は少ないんだぜ」
話を続けよう
大阪に移った圓馬兄弟と圓喬は、しばらくは上方での寄席に集中した。明治25年9月圓馬が師匠圓朝のため奔走して実現させた、圓朝浪花座(なにわざ)公演後に圓喬は師匠から東京に戻るよう説得を受ける。
圓朝はすでに自身の身体の変調を自覚していたのかもしれない。あるいは、圓朝の芸を正統に継ぐ圓喬を手許に置いておきたかったのだろうか。圓朝の説得は圓喬の心を溶かした。圓朝は同じく圓馬兄弟にも声を掛けたが、圓馬兄弟は頭を下げ涙ながらにこの申し出を断る。
結局、圓馬兄弟は大阪に骨を埋めることになった。
東京に戻って不安はなかったのか。圓喬師匠が答えてくれた。
「腫物に触るように遠巻きに眺める連中もいたが、それまで通りに付き合ってくれる仲間もいたよ。人それぞれだよ。でも、あたしに言わせりゃ噺のまずいやつは近付いてこなかったよ」
「だったら、東京でも大丈夫だったんですね」
「それが、噺のまずいのに限って声が大きいんだよ。席亭なんかに顔が利くって奴だね。まだまだ俺は弱輩だったけど、それでも圓朝師匠が生きている間は、三遊社の幹事にしてもらったり、百花園の速記の会とかにも呼んでもらったりしたけど、師匠が死ぬと酷いもんだったよ。三遊派主催の落語会なんかには呼んでくれないんだぜ。だから同じ生涯圓朝師匠一筋の圓左(えんざ)さんなんかと落語研究会を作ったんだけどね」
話を元に戻そう
東京に戻った圓朝は怪我や梅毒などにより高座からは遠退くことになった。圓喬によるとそれ以降、聴くに値した圓朝の高座は明治28年10月錦輝館(きんきかん)で行われた「大演芸会」であったという。発起人は藤浦周吉、条野採菊(じょうのさいぎく)、大沢緑蔭(りょくいん)などであった。華族など上流階級の客約百名を前にして開会された。前座として圓遊が晴れの舞台とばかり、一所懸命に擬宝珠(ぎぼし)を演った。圓喬は白けきった頭で考えていた、これだけの人間があの時、本気で圓朝と三遊派を支えてくれていたならば、あんな事にはならなったはずだ。結局、落語が好きなのではなく、圓朝を身近に呼べる自分自身に酔っている連中だ、と。
圓喬は小咄でお茶を濁した。それは次の圓右(えんう)にも伝わったが、圓右はそつ無く唐茄子屋(とうなすや)を演る。圓右は下がってきて、圓喬と目があったが顔を伏せた。そして、圓朝は小咄を間に挟みながら、一人酒盛と牡丹灯籠(ぼたんどうろう)を熱演する。
満場の拍手で会は終了し、開場をあとにしようとする圓喬と顔が合った師匠圓朝は、微笑みながら頷いたという。
少し恥ずかしそうに師匠は呟いた
「圓右さんだからうまく繕ってくれたけど、俺の後を受けたのが圓馬さんや圓左さんだったら会は滅茶苦茶だったろうな。師匠の顔を潰さなくて良かったよ。俺も若かったからな。今のおまえさんと同(おな)い歳だったよ。まあ、逆恨みってやつだね」
若さよりも性格の問題じゃないかなと思ったが、そんなことは言えない。
「その後の圓朝師匠は高座から完全に引退したわけじゃないんでしょ」
「身体の具合の良いときには寄席にも出たけど、出ると床に伏せるの繰り返しさ。休んでいてもらえばいいものを、担ぎ出す奴がいるんだよ。圓三郎が東京に来た時は、橘之助(きつのすけ)と一緒に師匠を訪ねて、看病したり信心に誘ったりしてたな」
その圓朝も死に搦(から)め捕られる。
明治33年8月11日午前2時圓朝歿す。
結局、圓朝の死まで圓馬の足は東京へは向かなかった。それ以降も師匠圓朝の年忌以外には東京の土を踏んでいない。つまり、人形町末廣での圓馬がトリの興行は真夏であった。そこに助演(すけ)で出演した圓喬は、8月16日から、本来は冬の噺である『鰍沢』を含めて十五演目を、敬愛する兄弟子の前で熱演し伝説を遺したのである。兄弟弟子二人の熱演に触れることができた客は幸せだった。
落語研究会で前座を務めていた噺家が自らの他席を休んで、楽屋で熱心に二人の高座を聴いていた。その前座こそ立花家左近(さこん)、後の三代目圓馬である。
圓喬師匠が懐かしそうに語る
「圓馬さんは東京へ来ると、上方の根多を東京の連中に教えてたんだが、三遊の連中には教えなかったよ」
三代目を調べてみた。
「三代目の圓馬さんも多くの上方の根多を東京に移しましたが、三遊の人にはあまり教えていませんね」
「ほう、そうかい、圓馬さんが何か云ったのかな。それとも、察してくれたのかな」
師匠が今日の出来事をまとめてくれた。
「圓馬っていうのは、そんな矜恃のある名前なんだぜ。吉原でいえば張りだよ。それに、出囃子の圓馬囃子は圓馬さんが拵えたものだ。今日その圓馬囃子を聞いたときは懐かしかったねぇ。それを使っといて、あの妾馬の出来はないだろう。八五郎は出来てたよ。任(にん)に合っているってやつだよ。しかし、御大名の赤井御門守(あかいごもんのかみ)も中間(ちゅうげん)の三太夫もダメだ。のっぺりとしいて、嬉しくって燥(はしゃぎ)ぎまくる八五郎を受止めきれていねえよ。あの圓馬はひょっとしてこの噺を面白いとは思っていないんじゃないかな。自分でつまらねえと思う噺を聴かされる客の方は大迷惑だぜ。落語ってのは、あたしはこの噺はこんな風に面白いと思っているんですが、みなさんはどう思いますか? 一緒に楽しみましょうよ。お客にそうやって語るのも大事なんだぜ」
「それは少し感じました。八五郎だけで笑わせてやろう。そんな高座でしたね」
「ほとんどの客はそう思ったはずさ。だから途中でサゲたんだろ」
「噺を持ち直して欲しかったですね」
「あたしが睨んでたから演りづらかったろうよ。今度会ったら謝って、事情を話したいな」
そういう機会はある方がよいのか、ない方がよいのか、今の僕にはわからない。話題を変えようと、インターネットで検索しながら、
「さっき圓朝師匠のお見舞いに橘之助って名前が出てましたが、どなたですか?」
「立花家橘之助だ。女の音曲師だよ。気っ風が良くて、芸が上手くて、たぬきなんかは絶品だったね」
僕はあわてて検索しながら、
「たぬきって浮世節ですね」
「そんなことは誰も云わなかったよ。橘之助のたぬき。これでいいんだよ」
「そんなに上手かったんですか?」
「ああ上手かった。上手かったけど途中でなにをとち狂ったか、女道楽連(おんなどうらくれん)なんてのに入りやがってな。ありゃあ酷かった」
「女道楽連てなんですか?」
「女芸人の寄合だよ。音曲を道楽にしている女の集まりと洒落たんだろうけど、こいつらの興行が酷いんだ。トリで出てきた三人の中に橘之助がいたんだよ。真ん中が羽根助、左がおなま、そして右に橘之助だ。橘之助の芸に他の二人がついてこれねえんだ。あまりに酷いから、橘之助に云ってやったんだよ。男道楽のおまえさんが女道楽連とは洒落にもならねえなって。そしたら、橘之助はそれっきり女道楽連を抜けたよ。一件落着だ」