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夢幻圓喬三七日

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三日目:平成24年11月24日 土曜日



 
 朝、師匠はやっぱり稽古をしていた。
「……それから三遊亭圓朝がまだ若い時分にこれに入っておりました……」
 圓朝師匠が出てくるのは何の噺だろう。それともマクラかな、声を掛けて良いものか迷ったけど思い切った。
「おはようございます。何の噺を稽古してたんですか?」
「鰍沢だよ」
「鰍沢に圓朝師匠が出てくるんですか」
「マクラだよ。このマクラじゃないと噺が落ち着かないんだよ」
「そうなんですか、でも楽しみだな〜」
「何でそんなにあたしの鰍沢を聴きたいんだね」
「なんでって、柴田さんの鰍沢は今の時代にも伝説として伝わっていますよ」
「そうなのかい、嬉しいやら、恥ずかしいやらだね」
「鰍沢だけじゃなくて様々な伝説が伝わっていますよ。僕も色々とお聞きしたいですし」
「暇があるときだな」
 そうだった、師匠の時間は限られているんだと、寂しくなった。今日もその大切な時間が過ぎようとしている。支度を済ませて、明かりの消えた管理人室を通り過ぎて定食屋へと向かう。

 特別納豆定食と念願の鮭定食で二人とも満足だ。
 師匠が扇子と手ぬぐいを買いたいというので、上野に向かうことにする。
 大人数の少女たちの、プロモーションビデオが映し出された駅前の大型ビジョンや、遠くにそびえ立つ東京スカイツリーに、師匠は驚いていた。
 途中、風月堂を見かけると、東京名物として一緒の錦絵に描かれたことがあると師匠は教えてくれた。
 扇子と手ぬぐいを数本買い求め、和食器屋では九谷焼の湯呑みを二つ買ったうちのひとつを僕にプレゼントしてくれた。帳簿はマイナスになったが一生の宝物だ。いや、こうして師匠と過ごしている時間こそが本当の宝物だ。

「おっ精養軒があるぞ。懐かしいな」
「昔からあったんですか」
「ああ、いろんな所にあったよ。高いから一度も入ったことはないけどね」
「少し遅くなりましたが、精養軒で食事にしませんか」
「冗談言うなよ。明日のご祝儀じゃ取り戻せなくなっちまうだろう」
 師匠の時代、精養軒はそんなに高級な店だったのか。たしかに今でも安くはないけど、ランチだったらお手軽なのもあるはずだ
「大丈夫ですよ。行きましょうよ」
 及び腰の師匠とともに精養軒に入る。当然1階の気軽な方だ。現代の精養軒のメニューを見て師匠は安心する
「ほんとだ、昨日のカレーより安いのもあるぞ。精養軒だからパンもあるな。何だこの変な顔のパンは?」
「それは中国のパンダっていう動物です。上野動物園にいますよ」
「ちゅうごくってなんだい」
「あっ、唐土(もろこし)です」

***************
* 唐土の方角から首長鳥の
* まず最初、オンが一羽

* 落語 つる(桂吉朝)より
***************

「今の時代はこんな変な動物もいるのか」
 いや違うでしょ。昔から唐土にはいたでしょ。師匠はハヤシライス、僕はオムライスにした。なんと師匠はハヤシライスを知っていた。注文が済むと師匠に訊ねた
「昨日の三味線栗毛の時、仏壇に手を合わせてくれましたよね。どうしてですか?」
「ああ、あれか、本当はもっと早く気づかなくちゃいけなかったんだが、仏壇に位牌が二つあったんだよ。ひとつは河井君の爺さん婆さんのだろ、もう一つはそのご両親じゃないかと思ってな」
「そうですね、僕からすると曽祖(そうそ)父母になります」
「河井君の父上が落語好きは血筋って言ってたから、ひょっとしてそのひい爺さんは、あたしの高座を石浜館で観てるんじゃないかと思ったんだよ。そう考えたら手を合わせとかなくちゃいけないなと考えてね」
 そうだったのか。師匠は淡々と話しているがそんなの反則です。ありがとうございます。涙が出ます。僕はトイレに立った。
「カレーも良いけどハヤシライスも良いな」
 ハヤシライスに付けられたサラダはあまりお好みではないようだ。さすがに精養軒に気後れしたのか白湯も頼まない。僕はこのあとの予定を師匠に伝えた。
「このあと寄席に行きましょう」
「どこだい、今は寄席が少ないんだろ」
 前日に東京中の寄席の出演スケジュールを確認して、師匠が知っていそうな名前の噺家が出演しているのを見つけた。もちろん、代は変わっているがこの名前なら絶対に知っているはずだ。三遊亭が少ないのでちょっと苦労した。
「新宿末廣亭です」
「あすこは講談の席じゃないのか」
「今は落語の寄席ですよ。間に色物が挟まります」
「なんだい、落語と色物と分けてるのかい」
「昔は分けてなかったんですか?」
「ああ、色物の寄席っていえば、落語と音曲だよ。手品なんかもあったけどね」
 知らなかった。
「今からだと昼の部の仲入りに充分間に合いますよ」
「今は色物の昼席があるのか。ちょっとその前に寄りたい所があるんだが」
「どこです? ご案内しますよ」
「玄冶店に行きたいんだ」
 百年前の『玄冶店の師匠』が現代の玄冶店に行きたいとご所望だ、何の異論があるものか。
「わかりました、ご案内します。地下鉄ですぐですよ」
「地下鉄って地下にある鉄道かい」
「そうです、そうです。説明不足でした」
「段々とわかるようになってきたから、気にするなよ」

 人形町まで移動する間に玄冶店のことを聞いてみた。
「昔の玄冶店ってどんな所だったんですか」
「良い所だよ。だから住んでたんだ。末廣も近くだし、もう店は閉めちまったが貞奴の濱田家(はまだや)もあったんだよ」
 濱田家って何かの店みたいだ。貞奴がわからないが口を挟むのはやめよう。師匠は続けてくれる。
「元吉原の三浦屋のあとに家(うち)はあったんだぞ」
 これは知っている。元吉原はたしか五人廻(ごにんまわ)しに出てくるし、三浦屋は紺屋高尾(こうやたかお)はじめ多くの演目に登場する遊女屋だ。
「すごいですね。高尾太夫の三浦屋ですよね」
「ああ、元吉原の高尾は初代だけだけどな。二代目からは新吉原だ。暇ができたら新吉原も見に行きたいな」
 あそこはダメだ。別に良い思い出も、悪い思い出も僕にはないが、師匠を連れて行ってはいけないような気がする。
「そうですね。時間が出来たらご案内します」
 そんな時間は作らないようにしよう。
 人形町に着くと交差点に近い出口から地上に出る。当然といえば当然だが、師匠の知っている玄冶店と大きく変わっているのだろう。最初は戸惑っていた。
 やがて師匠はゆっくりと歩き始めた。僕は師匠のあとを静かに付いて行くことにした。
 百年前の記憶を辿(たど)るように、そして百年間の変化に思いを馳せるように、師匠はコンクリートを踏みしめていく。師匠の家号と同じ稲荷神社や与三郎の墓などゆっくりと辿っている。
『史蹟 玄冶店 明治百年記念』という石碑を前にして、師匠は初めて僕に話しかけたくれた

「さっき買った手ぬぐいを湿らせてきてもらいたいんだが」
 僕は近くのコンビニに急いだ。ミネラルウォーターを買い、洗面所を使わせてもらう。手ぬぐいを固く絞って師匠の待つ石碑に戻る。僕から手ぬぐいを受け取ると師匠は石碑を拭いていく。丁寧にそしてしっかりと拭く。通りかかる人や目の前の店の人がその様子を見ている。
「これでよし。悪かったね」
作品名:夢幻圓喬三七日 作家名:立花 詢