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夢幻圓喬三七日

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 師匠が嬉しそうに頭を下げる。
「そろそろお蕎麦になさいますか」
 つまみもお酒もほとんど無い。父は花巻にしようか迷った末に盛り蕎麦にした。母は嬉しそうに花巻。師匠と僕はもちろん盛り蕎麦だ。女将さんは調理場の大将に声を掛けた
「巻がついて盛り四枚!」
 きっとこれで花巻一杯と盛り蕎麦三枚が運ばれてくるのだろう。プロの仕事なのだから。
 やがてその通りの蕎麦が運ばれてきた。女将さんは花巻を母の前に置きながら
「直ぐに召し上がれますよ」
 さっきの話を聞いていなかったら、不思議に思ったことだろう。母は早速蓋を開け
「本当にいい香りね。大将が言ってたことがわかるわ」
 ここで師匠は正座に座り直し背筋を伸ばした。つけ汁を蕎麦猪口に入れると箸先で蕎麦を掴み三分の一ほどつけた。蕎麦を口に運び啜る。啜るのと同じ速さで蕎麦猪口を口に近付ける。河井家はみんなで見惚れてしまった。僕も正座をして姿勢を正した
「そうして食べると美味しそうですね」
「あたしはこうした方が美味しくいただけますが、人それぞれでしょう。美味しくいただける食べ方でいいんですよ」
 父と僕は真似をして食べ始めた。そうか、こうして食べると色々なことがわかる。蕎麦を目の高さまで持ち上げるとちょうど蒸籠から離れる。口の高さまで下ろすとだいたい三分の一が手にした蕎麦猪口に入る。そして啜るのと同じ速さで蕎麦猪口を口に近付けると汁が飛ばない。全てが合理的だから綺麗に見えるんだ。アグラをかいて、さらに姿勢が悪いと、頭の上まで蕎麦を持ち上げないといけないんだ。汁もつきすぎる。大将がこちらを見て嬉しそうにしている。他のお客さんもチラチラこちらを見ている。盛り蕎麦を頼むお客さんも何人かいた。女将さんが蕎麦湯を運んできて母に一声かける
「うちのかけ汁は少し強いから、お蕎麦を食べ終ってから飲むときに薄めて下さいね」
 蕎麦湯をみんなで堪能する。師匠は白湯と同じように実に旨そうに飲んでからしみじみと言う。
「旨いなぁ、湯たんぽで温められているような心持ちですね」
 河井家も幸せそうに蕎麦湯を楽しんでいると、大将がやってきた。
「師匠、久しぶりに良いもん見せてもらったよ。嬉しいね、蕎麦屋をやってて良かったよ」
 僕は正直に打ち明ける。
「師匠の食べ方を真似をしましたが、蕎麦が美味しくなった気がします」
「どんな食べ方したってうちの蕎麦は旨いよ。師匠の噺だってそうだろ、どんな聴き方したって心に響くぜ」
 僕は食い下がる。
「そうかもしれませんが、気持ちよく食べられるんですよ。もっと早く教えてくれれば良かったのに」
「冗談言っちゃいけねえよ。だれが俺の蕎麦はこうやって食え! なんて、言えるんだよ。そんなお高くとまった蕎麦なんか拵えてないよ。好きなように食ってくれていいんだよ。師匠だってそうだろ?」
「そうです。でも大将、こうやって喰った方が旨く感じるという拵え方はしてるんでしょう」
 大将は我が意を得たりとばかりに
「またまた嬉しいね。そうなんだよ、うちの蕎麦はその辺の蕎麦屋よりひと折分長いんだよ。それに汁も強いしな。だから師匠みたいな喰い方が一番合ってるんだよ。なかなかそういう喰い方してくれる人は少なくてな。蕎麦を汁にザブザブつけたり、蕎麦が長いからって手で千切る奴までいるんだぜ」
 意地悪な質問をしてみよう。
「蕎麦を短くして、汁を薄めにすればいいじゃないですか」
「馬鹿言うなよ。真っ当なお客さんを無視したような蕎麦を出すくらいなら店を閉めるよ」
 その時、他のお客さんから声がかかった。
「大将、蕎麦談義も良いけど、そろそろ落語談義にしてくれないか」
 僕は落語とも通じることだと思ったけど、大将は父に向かって話しかけた。
「おおそうだ、師匠の次の落語会の予定はあるのかい」
「いや、早く蕎麦が食べたいから話もそこそこに飛んできたんだよ」
「また、うまいこといって。早い話がまだ決めてないんだろ」
「遅く言ってもそうだね」
「だったら、決めちまおうぜ。師匠どうだい、また落語会をやってくれないかい?」
「あたしは構いません、というか願ったり叶ったりですよ」
 外野が、お〜、と拍手をする。
「じゃあ決まりだ。いつが良いかな。明日じゃどうだい」
 一斉に外野が騒ぎ出す。「明日は孫と遊園地だからダメだ」「明後日(あさって)はどうだ」「日曜は笑点があるぞ」「お前には師匠の噺を聴く資格はねぇ」
 結局、明後日の午後四時に決まった。大将がどうしても譲らなかったため場所はこの蕎麦屋だ。大将は得意そうに師匠に説明し始めた
「うちは落語会になれているから気兼ねしないでくれよ。知り合いの倅(せがれ)が噺家をしてるから、余一会(よいちかい)でそいつを呼んで二階の座敷でやるんだよ。そっちのお客さんにも声掛けるから今日よりは集まると思うぞ」
 僕は慌てて師匠に補足する。
「余一会というのはですね、31日が……」
「知っていますよ。蕎麦屋じゃ12月は出来ないから次は1月ですな」
「そうなんだよ、ちょいと間が空いちまうから、うちとしてもみんなにとっても好都合なんだよ。それといつもは蕎麦付きで赤字覚悟の千円なんだが、どうしようかね」
「今日と同じ蕎麦なしの五百円で結構です。一席でよろしいのですか」
「ああ、五時から店だからな、その代わりひとつじっくりと頼むよ」
「わかりました、精一杯勤めさせていただきます」
 また、他のお客さんが拍手をする。僕は大将にどうしても確認しておきたいことがあった。
「いつも余一会では女性のお客さんはいるんですか?」
「ほとんどいないよ、最初は付き合いで来てくれたけど、売れてない二つ目だからね、いまじゃ男の客ばっかりだよ」
 よし! 鰍沢が期待出来る。師匠が落ち着けと視線を送ってくる。
 そんなこんなで蕎麦屋での打ち上げはお開きとなった。会計は師匠がご祝儀から払うというのを、息子との約束だからと父が払った。
「待ってるよ〜」
 大将の元気な声に背中を押されて実家へと戻る

 実家では座卓を囲んで酔い醒ましの茶話会だ。父が丁寧にお礼を言いながら師匠にご祝儀を渡たすと、母が思い出したように
「それじゃお着物はうちでお預かりしておきましょう。足袋と肌襦袢は早めに洗濯した方がいいですもんね」
「それでは申し訳ないです。自分でいたします」
 師匠は洗濯できるのか? 坐って喋らせておくほか使い道がないんじゃないのかな。僕は足袋の洗濯などはしたことはなく、いつも母親任せだった。父がフォローする
「うちのは結婚前は着物専門店に勤めていましたから、扱いも慣れてますよ。それに持ち運んで万が一紛失でもしたら大変ですよ。うちには算盤(そろばん)がないから探せませんしね」
 父は洒落たことを言ったつもりになって少し得意そうにしている。

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* あっしはねぇ算盤一つありゃ
* それで弾き出しちゃうんです
* から

* 落語 占い八百屋
* (柳家小三治) より
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 母はそんな父を完全に無視して、
「ね、そうして下さいな。誠からもお願いして」
 人質ならぬ服質をとるつもりだ。結局、師匠が折れた。
作品名:夢幻圓喬三七日 作家名:立花 詢