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夢幻圓喬三七日

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 志ん生全集に入っているのだから、当然父は聴いたことがあるに違いない。しかし、全く違う話に聴こえたと思う。それくらい師匠の……って比べちゃいけないんだった。話題を移そう。
「茶金はどうだった。寄席では聴いたことがあるけど、これも落研ではあまり聴かない噺なんだよ」
「これは何度も聴いた噺だけど、こんなにきれいな関西弁は初めてだったな。上方落語はあまり聴かないからわからないけど、関西弁が気持ちよかったね」
「もともと上方の根多だから、米朝の十八番(おはこ)で京都弁が活きる噺だよ」
「京都弁なのか。柴田さんの京都弁も気持ちよかったね。あちらにいらっしゃったことがあるんですか」
「飛び飛びですが六、七年ほど上方へ修行に行ったことがあります」
 危ない話題になりそうだ。
「蕎麦屋はもうやってるんじゃない? 早く行こうよ」
「おおそうだ、すっぽかしたら大将に殺されちゃいそうだからな」
 あの大将ならやりかねない。

 連休初日だからか、他に家族連れがひと組いるだけの蕎麦屋では、大将と奥さんが歓迎してくれた。さっそく座敷の『ご予約席』の札が置いてある席に案内してくれる。
 注文は師匠が燗酒と海苔、他には父が適当に注文した。僕の好きな卵焼きも頼んでくれた。ほどなく家族連れは食事が済んで楽しそうに帰っていった。これで店には僕たちだけになったが出前の電話は時々鳴っている。母を除いてみんなアグラにした。先にお酒が運ばれてきて、父が音頭を取る。
「師匠、本日はお疲れさまでした。今後とも宜しくお願いいたします。乾杯!」
 お猪口を差し上げる。師匠は戸惑って僕を見ながら真似をした。乾杯の歴史は浅そうだ。それと、師匠と呼ばれることは承知したみたいだった。
「ああ、旨い。高座のあとの酒は格別ですね」
 調理場から大将がチラチラ見て、早くこちらへと来たそうにしていると、そこでまた電話が鳴った。これでは当分来られそうにないな、と少し可哀想になった。お女将さんと大将がつまみを運んでくる。大将は見たこともない箱を持ってくると師匠の前へと置いた。この小型の裁縫箱みたいなのはなんだろう。母が訊ねると、大将より先に師匠が答える
「焙炉(ほいろ)です。海苔が湿らないよう下に炭が入ってます」
 大将が嬉しそうに頷く。
「うちではほとんど頼むお客さんはいないけど、注文があればこれで出すんだよ。俺も海苔が好きなんだ。時そばのしっぽくの代わりに花巻で演ってもらいたいくらいだよ。師匠、今度演ってよ」

***************
* おうッ、何ができる? 
* 花巻にしっぽく? じゃあ
* しっぽく熱くしてもらおうか

* 落語 時そば より
***************

「蓋付きの蕎麦は演りづらいですからね。それに蓋を取るまでに時間がかかりますから」
「そうだった、確かに蓋のない花巻はいただけねぇ」
 時そばの屋台の品書きには花巻もあるけど、みんなしっぽくで演っている。僕は不思議に思って聞いてみた。
「花巻は蓋がないとダメなんですか」
 大将はそんなことも知らないのか、という顔でテーブルの脇に腰掛けながら、
「蓋を上げたときの香りが勝負だからな。蕎麦の湯気で上に乗せた海苔がしっとりとして香りを出すんだ。その香りが汁と蕎麦に移った頃合を見計らって蓋を取るんだ。最近はすぐ蓋を開ける客が多いから、うちでは調理場に少し置いてから出すけどね」
 そんなめんどくさい食べ方は、僕には絶対に出来そうにない。少し意地悪な質問を思いついた。
「じゃあ花巻は出前できないですね」
「出前の花巻は海苔を丈夫なのに換えるんだよ」
 より丈夫な海苔ってなんだ? きっとプロの考えなんだろう。それはともかく、大将は僕たちの席に居座(いすわ)るつもりなのだろうか。
「出前といえば、出前は大丈夫なんですか?」
「出前? そんなもんはないよ」
「えっ、さっきから電話が鳴ってますよね」
「あの電話かい? ありゃ出前じゃないよ。今日の落語会に行った連中だよ。師匠は来たか、まだ来ないのかって電話だよ。見ててみなもうすぐ来るぜ」
 大将は苦々しい顔で言い放った。
「そうだったんですか。てっきり出前かと思いました」
「電話が五月蠅(うるせ)えの五月蠅くねえのって。さっきなんか、師匠が来てるのに、まだ来てねえって言ってカアちゃんに怒られたよ」
 言ってる間にお客さんが来たようだ。大将は渋々戻っていく。これで、我々だけの時間が戻ってくる。やって来た落語会に参加してくれたお客さんは、こちらを見て会釈する。師匠をはじめとして河井一家も会釈を返す。師匠は海苔を丸めてちょっとだけわさびを引っ掛け、これまた小皿の醤油を引っ掛けて噛み切ってから残りを口にする。
「この海苔は解(ほど)けやすいですね。香りもいいし、酒がすすみますね」
 海苔が解けるってなんだ? 師匠に聞こうと横を向いた僕に勧めてくれた。
「河井君も一枚どうです」
「いただきます」
 師匠の真似をして食べてみたら、旨い! 解けやすいという言葉がわかった。香りもわかる。定食屋で師匠が味付海苔に戸惑っていたのが理解できた。これに比べたら、って比べちゃいけない? いやこれは比べてもいいでしょ。僕は思わず口に出した。
「美味しいですね。お酒にも合いますね」
「お前は日本酒と海苔の旨さがわかるのか?」
 父が食べたそうに聞いてくる
「注文しようよ。美味しいよ」
 母がお酒とともに追加注文をした。調理場で忙しくしている大将が嬉しそうに返事をしてた。その間にもお客さんたちがやってくる。みんな落語会に来てくれた人たちだ。わざわざお礼を言いに来る人も多い。僕たちは挨拶に忙しくなった。中にはこちらを見て熱燗と海苔を頼んでいる人もいる。師匠にお裾分けの卵焼きを取り分けたり、父と母が海苔の旨さにびっくりしたりして、時間が過ぎてゆく。調理場が一段落したのか、大将が喜び勇んでやって来た。
「お待たせしました」
 別に大将を待っていたわけじゃないんですが……。
「俺も落語が好きで色々聴くんだが、師匠は凄いね。誰に教えてもらったの」
「いえ、ひとりで古い速記やテレビを使ったりして覚えました」
 まさか、圓朝師匠に稽古してもらったなんて言えないし、言っても信じてもらえないし、『テレビを使う』か、まあいいか、言いたいことはわかる。
「そりゃ大したもんだ。普段はどこで演ってるの?」
 あわてて僕が答える。
「普段は茨城の方で細々と演っているんですよ」
「そうなのかい、この辺で演ってくれれば行けるんだけどな〜、残念だな〜」
 話題を変えなくては、
「この海苔美味しいですね。解けやすいですね」
 師匠すんません。パクりました。
「わかるかい。嬉しいね。気に入ったのを見つけるまでずいぶん苦労したよ」
 そこまで話していると、女将さんが大将を呼びに来た
「力(ちから)がついてたぬきが四杯(しはい)だよ」
「はいよ」
 大将は調理場へと戻っていった。女将さんは僕たちに謝ってくる。
「すいませんね、五月蠅くて。帰ってきてから師匠のことばっかりなんですよ。いや〜すごかった、すごかった。師匠は俺に向かって話してくれた、なんて訳のわからないこと言うんですよ」
「ありがとうございます」
作品名:夢幻圓喬三七日 作家名:立花 詢