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短編集51(過去作品

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 もう戻れない人生を引きずって、これからの生活に影を落としながら後ろ向きの人生を歩むか、それとも開き直って、前だけを見つめて、過去は楽しい思い出として心の余裕として取っておくことにするか、そのどちらかであろう。
 まだホッとしている時期に、いつものように一人で美術館に出かけた時のことだった。
 いくら付き合っているとはいえ、お互いの趣味にまで干渉はしない。相手の趣味に興味がなければ、干渉のしようもないからだ。
 美術館で落ち着いた時間を過ごすことは、就職してからもできることだ。ひょっとすれば、一番の楽しみになるかも知れない。そう考えていると、学生時代の自分でなくなっていく気持ちが急速に高まってくる。
 絵を見ていても、今まで大きいと思っていたキャンパスが小さく見えてくる。しかも至近距離から見つめるよりも、少し離れたところから全体を見つめているような錯覚に陥るのだった。
 だが、不思議なのは、館内全体が広く感じられる。キャンパスが小さいのに、部屋全体は広い。まるで無限の世界に入り込んだような気分になる。
 胸の鼓動を感じる。空気が薄くなっているようだ。いつもの渇いた靴音が遠くの方からしか聞こえてこない。しかも耳鳴りを感じる。
 足は疲れているわけではないのに、間隔が次第に麻痺してくる。足が地に着いていない感覚とはこのことをいうのだろう。とりあえず、奥のロビーのソファーに腰掛けることにした。
 そこのロビーは贅沢に作られていて、ソファーに身を任せると、クッションに埋まってしまうほど深くて柔らかいものだった。
 以前に、そこでそのまま眠ってしまったことがあったくらいに心地いい。その時に見た夢を思い出していた。
 その時には目が覚めてから覚えていなかったはずなのに、なぜか今なら思い出せそうな気がする。ただあくまでもおぼろげであって、何かのきっかけが必要なはずである。学生時代のあの時に目が覚めて思い出せなかったのは、その時では実感が湧かなかったからかも知れない。
 大学生で、毎日がゆとりの生活で、切羽詰ったような感覚には程遠いものがあった。
 後悔するような発想をしたとしても、それは本能がすぐに忘れようとするに違いない。
 確かその時の夢は二者択一だった。ただ、大学生の発想では、到底選択できる発想ではなかった。何しろ二つは平行線に見えたからだ。
 平行線はどこまで行っても決して交わることがないから平行線なのだ。だが、平面上で立体を描けば、その先で必ず交わって見える。見えるだけで実際には交わっていない。いかに交わっていないかということをぼかしながら示すことができるかが、その画家の力量といえるのではないだろうか。
 その時に絵を見ている武田をじっと見つめる女の子がいた。
 最初は気付かなかったが、気付いてからも見つめられていると思うと、気持ち悪さを感じるほどだった。
 なるべく意識をしないようにしていたので、見つめているのが女性であることすら分からなかった。首を曲げずに目だけで追ってみると、その女性が微笑んだ。その表情に最初は何も感じなかったのだが、すぐに無表情になり、さらに武田を見つめている。
 かなしばりに掛かったかのようにその場から動くことができなくなり、うっすらと汗を掻いてくる。彼女は近づこうともせず、ただ見つめていたが、武田は見つめられているうちに、身体が宙に浮いてくる感じがしてきた。
 背中に羽根が生えて、必死で飛び立とうとしているのに、その場から逃れることができない。
――まるでトンボだ――
 どうしてそう感じたのだろう。トンボには自由奔放なイメージが湧いていたはずだ。しかもそれは結婚を考えている彼女の言葉からの発想ではないか。
 だが、自分から声を発することもせず、じっとその場にとどまっているトンボは、本当に自由奔放なのだろうか。今さらながらに感じてしまう。
 今自分を見つめている彼女こそ、トンボのイメージである。
 声を発することもできず、ただじっと立ち止まって誰かを見つめている。見つめられた相手もその場から動くことができないのは、トンボとしての隠れた特徴なのかも知れない。
 じっと見つめられていると、自分の中にある決意が揺らいでくるのを感じる。
 その時、一番心に秘めていたのは、付き合っている女性との結婚だったはずだ。お互いに隠し事もなく、ずっと同じ気持ちが持続して、さらなる気持ちの高ぶりが結婚へといざなったはずである。
 心の何かが音を立てて崩れ始める瞬間を初めて感じた。
――本当にメキメキという音が聞こえてきそうだ――
 そして、今目の前にいる彼女を見ていると、初めて出会った気がしない。今までにも、どこかで見られていた感じがしてくる。
――どこであったのだろう――
 必死で思い出そうとすると、最初にトンボの絵を見た美術館を思い出した。
 あの時は、アベックばかりだったが、じっとトンボの絵を見ている時に、後ろから視線を感じて、何度か振り返った。だが後ろには誰もいない。不思議に思っていたが、何とかして自分を納得させようと、考えたことが、これまた滑稽だった。
「目の前の絵に描かれているトンボが、自分の後ろに回りこんで見つめているんだ」
 何とも神秘的だが、勝手に納得していた。
 トンボは一匹で行動しているよりも集団の時が多い。絵に描かれているトンボの近くにも数匹のトンボがいるだろう。
 そんな発想をしていたのだ。
 じっと見つめている女性のことを気にしながら美術館を出ると、もう、彼女の視線を感じることはなかった。
 だが、美術館を出ると、さっきまであれだけ揺らいでいた気持ちがウソのようだ。それよりも却って結婚に対しての気持ちが強くなったようである。だが、それでも美術館で出会った彼女の視線を忘れることはないだろう。
 実家に彼女を連れていった。
 両親は彼女を一目見て、
「このお嬢さんなら大丈夫だ」
 と太鼓判を押してくれた。そして、その日の夜に久しぶりに両親と話をしたのだが、その時に両親が知り合った時のことを教えてくれたのだ。
 父親として、息子の結婚前には話しておきたかったという話だったが、それは、あまりにも身近に感じられる話だった。
「お前がわしに似てきていることは分かってきていたので、この話をしようと以前から考えていたんだ」
 という前置きから始まった。
「お父さんは、お母さんとの結婚を決意してから、一度その気持ちが揺らぎかけたことがあったんだ。他の人に心変わりしたというわけではなく、お父さんをじっと見つめる女の子がいるのに気付いてな」
「それで?」
「その女の子は、いつも川原に差し掛かった時にお父さんを見ていて、そのそばにいつも何匹ものトンボが飛んでいたんだ。いつも夕焼けの時だったので、その子の顔が真っ赤に見えて、顔まではハッキリと分からなかった。でも、気になってしまうよな」
 母親も、じっと聞いている。初めて聞く話ではないはずだ。
 武田にとって初めて聞く話だったが、以前にも同じような話を聞いた記憶があるのは、美術館での出来事があったからだけではないようにも思える。
作品名:短編集51(過去作品 作家名:森本晃次