美の探求
ふと視界を広げると、この世界は全人類的に、白磁のような光沢の美しさには爪を立てることなど許されないかのような絶対的観念に侵されており、あらゆる価値判断の上で美が最優先される磁場に支配されています。
私がどんなに知性や内面的な精神性を磨いても、それは美に対抗できるものではないと悟った時、やり場のない虚しさといいますか、虚無感のような感情が、私の身体全体に広がり、エネルギーを吸い取られたかのようになったのです。美というものの恐ろしさに、私はただただ打ちのめされてしまいました。
私はそれ以来、うつ状態になり、心の中にぽっかり穴が開いたような状態になり、何をしても楽しめなくなりました。極端に言えば、ただ寝て、起きて、食べて、人と会話し、そしてまた寝る、その繰り返しにすぎない生活を、今でも送っています。
トレイシーに是非聞きたいです。
美しさとは、いったい何でしょうか。
個人的なもの?もしくは、万人にとっての絶対的なもの?
一時的なもの?もしくは、幾世代にわたって普遍的なもの?
人間は生まれてから、数ある試練に鍛えられ、心をどれだけ磨こうとしても、持って生まれた外観としての肉体がその精神性を津波のように打ちのめしてしてしまうなら、人生とはいったい何なのでしょうか。
私は本当に分からなくて、分からなくて、分からなくて、そして、途方に暮れています。
トレイシー、美が世界のすべてを凌駕しているその意味を、教えてくれますか。
よろしくお願いします。』
読み上げていたタブレットの画面から目を離したトレイシーは、ひとつ深い息を吐いた。スタジオにいた数十人の聴衆は、静まり返っていた。トレイシー自身がアジア系の女性であることから、彼女がどんなアドバイスをするのか、という緊迫感が充満しているかのようだった。
「……さて皆さん、記者会見などではこれまで、未来の生活の便利さの話ばかりで、あまり話してこなかったけれど、タイムマシンに乗る前から私が最も関心を持っていたことがあるの。それは美容コンサルタントとして、この2030年に住む私たちの美意識が、この先100年間でどんな風に変わっているか、ということよ。今からそのことについて話しましょう。ちょうどそれが、今日のフランシスの相談の答えになっていると思うからよ」。
観客の女性たちの瞳孔がキラリと光った。
「みんな驚くかもしれないけれど、実は今から100年後に、遺伝性などの疾患はほとんど無くなっていたわ。遺伝子治療が飛躍的に進んでいたからなの」。
それを聞いて、ヒューという口笛が観客の中から響いた。
「ちょっと待って。遺伝性の、と言ったでしょう。ウイルスによる病気とか精神的な疾患やケガなどは依然として存在していたわ。でもね、今から100年後には遺伝子操作による治療が発達して、どんな遺伝的な疾患も治せるようになっていたの。それどころか、なんと、人々は自分たちの肉体の容姿を遺伝子操作で変えることができるようになっていたのよ!例えばそうね、「金髪の遺伝子」や「身長が高い遺伝子」とか、「青い目の遺伝子」なんていう、いろいろな身体的特徴の遺伝子情報がすべて解読されて、それを個人の遺伝子操作に応用することが許されていたのよ。つまり、フランシスが言っていた、“世間的な美”を自由に手に入れることができていたってわけね」。フランシスは、「世間的な美」のところで、両手の2本指でチョンチョンとカギを作りながら言った。
スタジオには低いどよめきが広がった。その中でトレイシーは、2130年の社会に降り立った時の驚きをありありと思い出していた。
ヒトゲノムの塩基配列を解読する「ヒトゲノム解析計画」は2002年には終了していたが、その後米国で再開されていた。トレイシーらの調査団が未来の政府関係者から受けたレクチャーによると、100年後になると、ヒトゲノム解析で得られた遺伝子やタンパク質の膨大なデータから、遺伝子操作による多くの病気の予防法や治療法が確立されていたようだった。
そして、さらに進化したAI(人工知能)が、一人ひとりの身体の全遺伝子情報を瞬時に解析することができるようになっていた。そのゲノム情報データベースを用いて、本人のタンパク質に結合する分子や抗体から、本人の身体に合った薬を作る「ゲノム創薬」が、応用範囲を広げていた。
応用範囲は遺伝性などの疾患だけではなかった。調査団が驚かされたのは、身体の特徴や容姿を形作るさまざまな遺伝子の解析技術が進み、美容整形への応用が可能になっていたことだった。それに対する倫理的な問題までも、100年後の社会では法整備されていた。
しかも何よりも特筆すべきは(トレイシーはテレビの前では言えなかったことだが)、遺伝子操作を施すための経口薬が、一般人も入手できるようになっていたことだった。
その経口薬は、ゲノム創薬の応用として本人の遺伝情報データベースを基にしているので、副作用もない。この経口薬を処方すれば、外科手術を介さずに、自分の身体を本人が設定した好みの身体的特徴に変えることが可能になっていた。
ちなみに美容目的の場合、遺伝子操作の経口薬の服用は18歳より前では認められていなかった。それより若ければ、遺伝子操作に関して本人が正常な判断を下せないと判断されたためのようだった。
遺伝子操作では、AIで解析された本人の遺伝子情報を基に、「髪の毛の色や量」、「肌の色」、「鼻の形」、「顔立ちのスタイル」、「身長」、「足の長さ」、「肉体的スタイル」などをどう変えるか「指定」し、指定された遺伝子情報を配合したカプセル型の経口薬を、一定期間飲み続けることになっていた。
ステイシーが、経口薬の存在をテレビの前では言わなかったのは、それが国民の無用な関心を呼びかねず、また大手製薬メーカーも目の色を変えて開発に着手しかねないと思ったからである。
米国では確かに、この究極の方法が実現するまでは、遺伝子を操作することによって、既存の人間に極めて運動能力の高い形質を持たせたり、世間的に美しいとされる容貌を持たせたりすることの是非は長年議論されたようだ。
米国では、遺伝子操作された人間はこの現代でも既に誕生している。その場合、妊娠初期の胎児である胎芽の状態の時に遺伝子操作するわけだが、それでもこうした胎芽操作は、深刻な遺伝性疾患を親から受け継ぐ可能性がある子供のために行われていただけだ。
実は、それが100年間の間に急速に応用範囲を広げた背景には、米国の長年の桎梏である人種問題もあったようだ。
2030年から数十年以上を経ても、黒人と白人の対立は深まり続けたようだ。そして、もはや建前の人種差別撤廃を目的とした啓蒙活動や教育ではにっちもさっちもいかなくなり、その究極的な解決法として、ならば遺伝子操作技術を使って容姿を自在に変えてもよいという法律が、一部の先進的な州議会で通過し、それが全米に広がったのである。