美の探求
「美の探求」
トレイシーは、百台以上はあろうかというほどのカメラのまばゆいフラッシュとシャッター音を全身に浴びながら、紅潮した顔でマイクの前に座っていた。
「最初に、我が米国の国家プロジェクトに参加できる民間人の一人に、数万人の候補者の中から選んでもらい、NQMIには本当に感謝を申し上げたいと思います。開発に成功したタイムマシンで西暦2130年の未来社会を訪れてくることができたのは、とても貴重な体験でした」。
質問の時間が待ちきれないように、マイクを抱えたテレビのリポーターたちが目を輝かせているのが分かる。
「あ、それとあらためて言っておきますけど、だれが大統領になっていたか、なんて政治的な話は絶対にしてはいけない契約になっていますから、野暮なことは聞かないでくださいね」。トレイシーが口調を変えていたずらっぽく言うと、集まった記者たちの間で失笑が漏れた。
トレイシーが言っていたNQMIというのは、全米量子力学研究所(National Quantum Mechanics Institute)のことであり、タイムマシン開発計画を昨年に成功させた米政府機関である。
今回の調査団がタイムマシンで未来から帰還した翌日、トレイシーのほかに、所長やほかの調査員らを含めたNQMI関係者計5人が同席した共同記者会見がワシントンDCで行われ、全米に中継されていた。
NQMIは既に、タイムマシンで過去だけではなく、同じ世界線上の未来にも「調査」のために関係者を派遣していたが、記念すべき第10回目に政府とは無関係の民間人を初めて派遣することになった。さらにその民間人が米国で有名なタレントであることから、メディアも大いに注目していた。
今回の未来へ旅立つタイムマシン搭乗者として民間人を募集した際、応募のあった数万人の中からトレイシーが選ばれたのには理由がある。タイムマシンの開発に世界で初めて成功した米国政府だけが未来をのぞき見ることで、世界の命運をコントロールし、国際情勢を操作しようとしている、などという陰謀論が世界で渦巻いていたことと関係があったようだ。
世界の命運を操作するかどうかは別にして、米国にとってタイムマシンの活用理由は、将来の自然災害を未然に防いだり、被害を最小限にとどめたりといった、表立って公表できるものだけでいくらでもあった。公表できない理由は当然存在したが、国民のいらぬ不満や陰謀論が国内外で広まるのは、タイムマシンの活用や未来調査にとっては足枷だった。
そこで、それを払拭するには世界中の人々に名前が知られる人気女性タレントが未来体験を「庶民的な観点」から語り、タイムマシンの健全な活用目的を喧伝し、陰謀論から焦点をそらすのが効果的だとの判断があったのだ。
実際、トレイシー自身は未来の国際情勢などには微塵も興味がなかった。そのこともNQMIにとっては都合がよかったのだろう。何しろトレイシーは、女性に大人気の米国のテレビトーク番組「Night Show with Tracy」のホストを務めるタレントであり、心理カウンセラーであり、美容コンサルタントでもあった。政治や国際情勢といった堅いニュースには一切関心がない。
「Night Show with Tracy」は、ニューヨークのスタジオで、主に女性視聴者からの悩みや相談に、トレイシーが軽妙にアドバイスしていく生放送の人生相談番組である。
この番組が米国で爆発的な人気を得ているのは、毎回の有名ゲストとの、美容や心理学に関する知識を駆使した知的な会話と、ユーモアセンス溢れた話術の魅力にほかならない。だがその背後には、彼女が特別な美人でもなく、ぽっちゃり目で、背も高くなく、さらにもう40歳をとうに越した中年の日系3世のアジア人女性であるという、庶民的な安心感もあったのかもしれない。人気トーク番組としてはまだアジア人の司会は珍しかったが、白人ばかりになりがちなこの国のテレビ司会者の中で、ポリティカル・コレクトネスの意識が働いた結果かもしれなかった。
NQMIの広報官が腕時計をちらりと見たのに気が付いたトレイシーは言った。「会見予定の60分を過ぎているので、未来社会の話はこのくらいにしますが、続きは今度の私の番組で話しますから楽しみにしていてくださいね」。
会見から数日後の「Night Show with Tracy」は全米で大きな注目を集めた。生放送番組なので、大物女優のゲストも、自身との対談そっちのけでトレイシーの話を聞きたがった。トレイシーはそれを軽妙にかわしながらも未来の話を小出しにして視聴者を釘付けにしていた。
「さて、ゲスト対談の次は、視聴者からの相談コーナーです。きょうの相談は、コロラド州の30代の女性、フランシスからです。」
照明が若干暗くなるのと同時に、スタジオにいる生バンドが静かなムード音楽を奏で始めた。トレイシーは手元のタブレットに目を落とし、落ち着いた声で読み上げ始めた。
『ハイ、トレイシー。私の悩みを聞いてください。
私には大学の時に知り合って、長年付き合った彼氏がいました。私は投資銀行のマネージャーとして働き、彼は大学で医学研究員をしています。もう10年以上一緒に住んでいたので、そろそろ結婚したいと思い、半年前に彼に正直にそう話したところ、ちょうどその頃、彼に新しい彼女ができたことが分かりました。大学の同じ研究所に勤める女性で、私より5歳下の美しいブロンドの女性でした。
そして結局、私たちは10年の共同生活に別れを告げました。もちろん私は傷つき、ショックで半年ほどの間、立ち直れないくらい落ち込みました。投資銀行では、猛烈に忙しいチームリーダーとしての仕事にも集中できずにミスを繰り返すようになり、私は苦労して手に入れたその職を去らざるを得なくなりました。
はたから見れば単に、失恋して落ち込んでいる状態が続いているだけのように見えたでしょうが、私は正直に言って、彼にも、相手の彼女にも全く恨みはありませんでした。もっと違う感情に苦しめられていました。混乱から少しずつ精神的な安定を取り戻す過程で、私の中に巣くっていたある感情です。それは、愛していた彼と別れた悲しみというよりも、人生の虚無感のような感情でした。
私は、アジア系移民の3世です。私たちの親や祖先は歴史的に、実力社会のこの国でのし上がろうと、必死で勉強して移民としての社会的なハンディキャップを乗り越えようとしてきたところがあります。私の祖父母も、両親も、私もその一人でした。MBAを取って大きな投資銀に入って着々と成功し、大人数を抱える部門のチームリーダーにもなりました。
彼は欧州系の白人で、私の知性や温和な性格をいつも褒めてくれて、ほとんど今まで喧嘩したこともなく(本当です!)、私はいつの日か彼と子供を持ち、幸せな家庭を築くのを夢見ていました。それなのに、突然、砂上の楼閣が波にさらわれるように、その夢が簡単に壊れてしまいました。
その彼は、私という存在の価値を簡単に凌駕してしまうほどの価値に出会ったのです。『美』というものです。
トレイシーは、百台以上はあろうかというほどのカメラのまばゆいフラッシュとシャッター音を全身に浴びながら、紅潮した顔でマイクの前に座っていた。
「最初に、我が米国の国家プロジェクトに参加できる民間人の一人に、数万人の候補者の中から選んでもらい、NQMIには本当に感謝を申し上げたいと思います。開発に成功したタイムマシンで西暦2130年の未来社会を訪れてくることができたのは、とても貴重な体験でした」。
質問の時間が待ちきれないように、マイクを抱えたテレビのリポーターたちが目を輝かせているのが分かる。
「あ、それとあらためて言っておきますけど、だれが大統領になっていたか、なんて政治的な話は絶対にしてはいけない契約になっていますから、野暮なことは聞かないでくださいね」。トレイシーが口調を変えていたずらっぽく言うと、集まった記者たちの間で失笑が漏れた。
トレイシーが言っていたNQMIというのは、全米量子力学研究所(National Quantum Mechanics Institute)のことであり、タイムマシン開発計画を昨年に成功させた米政府機関である。
今回の調査団がタイムマシンで未来から帰還した翌日、トレイシーのほかに、所長やほかの調査員らを含めたNQMI関係者計5人が同席した共同記者会見がワシントンDCで行われ、全米に中継されていた。
NQMIは既に、タイムマシンで過去だけではなく、同じ世界線上の未来にも「調査」のために関係者を派遣していたが、記念すべき第10回目に政府とは無関係の民間人を初めて派遣することになった。さらにその民間人が米国で有名なタレントであることから、メディアも大いに注目していた。
今回の未来へ旅立つタイムマシン搭乗者として民間人を募集した際、応募のあった数万人の中からトレイシーが選ばれたのには理由がある。タイムマシンの開発に世界で初めて成功した米国政府だけが未来をのぞき見ることで、世界の命運をコントロールし、国際情勢を操作しようとしている、などという陰謀論が世界で渦巻いていたことと関係があったようだ。
世界の命運を操作するかどうかは別にして、米国にとってタイムマシンの活用理由は、将来の自然災害を未然に防いだり、被害を最小限にとどめたりといった、表立って公表できるものだけでいくらでもあった。公表できない理由は当然存在したが、国民のいらぬ不満や陰謀論が国内外で広まるのは、タイムマシンの活用や未来調査にとっては足枷だった。
そこで、それを払拭するには世界中の人々に名前が知られる人気女性タレントが未来体験を「庶民的な観点」から語り、タイムマシンの健全な活用目的を喧伝し、陰謀論から焦点をそらすのが効果的だとの判断があったのだ。
実際、トレイシー自身は未来の国際情勢などには微塵も興味がなかった。そのこともNQMIにとっては都合がよかったのだろう。何しろトレイシーは、女性に大人気の米国のテレビトーク番組「Night Show with Tracy」のホストを務めるタレントであり、心理カウンセラーであり、美容コンサルタントでもあった。政治や国際情勢といった堅いニュースには一切関心がない。
「Night Show with Tracy」は、ニューヨークのスタジオで、主に女性視聴者からの悩みや相談に、トレイシーが軽妙にアドバイスしていく生放送の人生相談番組である。
この番組が米国で爆発的な人気を得ているのは、毎回の有名ゲストとの、美容や心理学に関する知識を駆使した知的な会話と、ユーモアセンス溢れた話術の魅力にほかならない。だがその背後には、彼女が特別な美人でもなく、ぽっちゃり目で、背も高くなく、さらにもう40歳をとうに越した中年の日系3世のアジア人女性であるという、庶民的な安心感もあったのかもしれない。人気トーク番組としてはまだアジア人の司会は珍しかったが、白人ばかりになりがちなこの国のテレビ司会者の中で、ポリティカル・コレクトネスの意識が働いた結果かもしれなかった。
NQMIの広報官が腕時計をちらりと見たのに気が付いたトレイシーは言った。「会見予定の60分を過ぎているので、未来社会の話はこのくらいにしますが、続きは今度の私の番組で話しますから楽しみにしていてくださいね」。
会見から数日後の「Night Show with Tracy」は全米で大きな注目を集めた。生放送番組なので、大物女優のゲストも、自身との対談そっちのけでトレイシーの話を聞きたがった。トレイシーはそれを軽妙にかわしながらも未来の話を小出しにして視聴者を釘付けにしていた。
「さて、ゲスト対談の次は、視聴者からの相談コーナーです。きょうの相談は、コロラド州の30代の女性、フランシスからです。」
照明が若干暗くなるのと同時に、スタジオにいる生バンドが静かなムード音楽を奏で始めた。トレイシーは手元のタブレットに目を落とし、落ち着いた声で読み上げ始めた。
『ハイ、トレイシー。私の悩みを聞いてください。
私には大学の時に知り合って、長年付き合った彼氏がいました。私は投資銀行のマネージャーとして働き、彼は大学で医学研究員をしています。もう10年以上一緒に住んでいたので、そろそろ結婚したいと思い、半年前に彼に正直にそう話したところ、ちょうどその頃、彼に新しい彼女ができたことが分かりました。大学の同じ研究所に勤める女性で、私より5歳下の美しいブロンドの女性でした。
そして結局、私たちは10年の共同生活に別れを告げました。もちろん私は傷つき、ショックで半年ほどの間、立ち直れないくらい落ち込みました。投資銀行では、猛烈に忙しいチームリーダーとしての仕事にも集中できずにミスを繰り返すようになり、私は苦労して手に入れたその職を去らざるを得なくなりました。
はたから見れば単に、失恋して落ち込んでいる状態が続いているだけのように見えたでしょうが、私は正直に言って、彼にも、相手の彼女にも全く恨みはありませんでした。もっと違う感情に苦しめられていました。混乱から少しずつ精神的な安定を取り戻す過程で、私の中に巣くっていたある感情です。それは、愛していた彼と別れた悲しみというよりも、人生の虚無感のような感情でした。
私は、アジア系移民の3世です。私たちの親や祖先は歴史的に、実力社会のこの国でのし上がろうと、必死で勉強して移民としての社会的なハンディキャップを乗り越えようとしてきたところがあります。私の祖父母も、両親も、私もその一人でした。MBAを取って大きな投資銀に入って着々と成功し、大人数を抱える部門のチームリーダーにもなりました。
彼は欧州系の白人で、私の知性や温和な性格をいつも褒めてくれて、ほとんど今まで喧嘩したこともなく(本当です!)、私はいつの日か彼と子供を持ち、幸せな家庭を築くのを夢見ていました。それなのに、突然、砂上の楼閣が波にさらわれるように、その夢が簡単に壊れてしまいました。
その彼は、私という存在の価値を簡単に凌駕してしまうほどの価値に出会ったのです。『美』というものです。