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ショートショート集 『心の喫茶室』

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ー12ー 砂時計


 私の命の砂時計――
 上の砂はもうわずか――
 
 
 あなたと出会ったあの日を、私はどれほど感謝したことか。
 私は、山手線の電車に乗っていた。行き先などなかった。だから山手線を選んだ。
 その日、そう病院の帰り道、耳を疑う病名を告げられた私は、呆然と座席に座っていた。乗客の乗り降りで車内は混んだり空いたり、そんな周りの気配も、その時の私には別の世界のことに感じられた。私はただ、正面の窓の外、どんよりと曇った空の下に広がる街中の景色を目で追っていた。そして、頭の中は空っぽだった。
 
 山手線を一周した頃、急に車内がガラガラであることに気がついた。何かの巡りあわせか、まるでローカル線に乗っているような錯覚を覚えた。その車両には数人の乗客だけ、そして、私の隣にはひとりの男性。ガラガラの車内で不自然なように私たちは並んで座っていた。なんとなく目が合い、その人は、こんにちは、と言った。
 何か答えようとした時、電車が駅に着き、どっと人が乗り込んできた。そして、いつもの都心の風景に戻った。
 ふと、私は気づいた。今隣に座っている男性、確かさっきまで、正面に座っていた人ではないか、ということに。いつの間に隣に移ってきたのだろう? いや、どうして移動してきたのだろう? 私は不思議に思った。
 
 私たちは電車を降り、近くの公園に向かっていた。
 車内で、ちょっと散歩しませんか? とあなたが誘ってくれた時、小さい頃親に言われた、知らない人について行ってはダメ、そんな言葉が思い浮かんだ。でも、もうその親はいない。そう、今の苦しい胸の内を聞いてもらえる人はどこにもいない。友人ではきっと受け止めきれないだろう。それなら、むしろ見ず知らずの人の方がいい。
 私は医師から言われたことを、その見知らぬ彼に打ち明けた。余命一年と宣告された事実を。あなたはただ黙って聞いてくれた。どんな言葉も、今の私を助けることはできないと気づいていたのね。
 そして、あなたはポツリポツリと先ほどまでの車内のことを話し始めた。正面に座った私の表情が尋常でなかったこと、それが気になり席を移ったこと、そして、話しかけたことを。今にもホームから飛び降りそうな顔をしていたのかしら、私……。
 
 
 あれから、あなたはいろいろなところへ私を連れて行ってくれた。いろいろなものを見て、美味しいものを食べ、いっぱい話をして、たくさん笑って……。
 病気のことを思う暇がないようにあなたは心を配ってくれた。おかげで私はあれから三回も桜を見ることができたんだわ。でも次の桜は、遠い空彼方から見ることになるのね、それもひとりで……。きっといつもと変わりなく、桜はきれいな花をたくさんつけるのでしょうね。
 
 もしも健康だったら――もちろん何度も、いいえ何万回もそう考えたわ。あなたと出会ってからは特にね。でも、私のただならない様子を案じてくれたことが私たちの出会いだったのなら、普通の私では出会えなかったことになるのかしら。
 神様もいじわるなことをするわ。いいえ、それは違う、逆ね。打ちひしがれた私に、あなたという救いの手を差し伸べて下さったんだわ。そんなあなたに癒され、助けられ、私の寿命は奇跡的に伸びて、残された日々を幸せに過ごせたんですもの。
 
 あなたの故郷に一緒に帰郷した時、お母さんにもとてもよくしてもらったわ。
 私は高校生の時に母を亡くしたから、お料理を教えてもらうことはなかったのよね。だから、あなたのお母さんと一緒にキッチンに立っていろいろ教えてもらえた時は、本当に楽しかったしうれしかった。そして、帰り際に黙って私を抱きしめてくれた……。これが最期、そんな思いが伝わってきて涙が溢れたわ。
 
 実は、あなたに感謝とお別れの手紙を書こうとしたの。だけど、いざ便箋を前にすると言葉が見つからなくて……。あなたへの想いは文字には表せないのかしらね。だから、その時が来たら、あなたの目を見てこの気持ちを伝えることにしたの。でも、まさか声が出なくなるなんて。これでは何も伝えられない……。
 
 そんな落胆した私の表情をあなたは読み取ってくれたのね。何でも聞くから話してごらん、あなたの目はそう語りかけている。そうね、初めての出会いの時からそうだった。あなたは私の表情一つで私を理解してくれたんですもの。最期の時もアイコンタクトで心を通わせられるはずよね。
 
 
 健二さん、ありがとう。
 どんなに感謝しても感謝しきれません。
 幸せに、どうか幸せになってください。
 
 
 もう身動きもできない私の目は、あなたをじっと見つめている。
 この想い、あなたに伝わったわよね? 私はそうあなたに問いかけた。
 ああ、わかってるよ、あなたの目がそう言っている。
 ああ、よかった、安心した私の目から一筋の涙がつたった。
 と同時に、最期の砂が静かに落ちた――
 
  
 
 健二の涙が渇いた頃、担当の看護師が一通の手紙を差し出した。
「自分がいなくなってから読んでほしいと、私宛に残してくれたものですが、最後に、健二さんにも読んでもらって下さいとありましたので」
 
 
『本間さん、半年の間本当にお世話になりました。なんとか文字が書けるうちにこの手紙を書いておきます。 
 本間さんの笑顔、励ましの言葉で長い入院生活がどんなに救われたことでしょう。辛い日、悲しい日、本間さんの心のこもった看護と、毎日のように顔を見せてくれる健二さんのおかげで、私の毎日は支えられてきました。おふたりのおかげです。
 本間さんの素敵な笑顔、これからは健二さんに向けてもらえないでしょうか? いつかおふたりで幸せになってくれたら……そう思っています。
 最期に、この手紙を健二さんに見せてもらえますか? 勝手ばかり言ってすみません。
 それでは、さようなら』
 
 
 たどたどしい筆跡のその手紙を読み終えると、健二はベッドを振り返った。すると、再び溢れ出た涙の向こうに、安らかな笑顔をたたえた愛しい人の姿が見えた。