ショートショート集 『心の喫茶室』
ー15ー さくら
それは桜が咲き始めた頃のことだったと思う。夕食を食べ終え、皿をシンクに運びながら彼女が言った。
「私ね、好きな人ができたの」
翌日、家に帰ると彼女の荷物は消え、テーブルの上にメモが残されていた。
『ありがとう 元気でね』
大学で知り合い同棲を始めて二年半。一緒にいると気楽で楽しく、生活費の節約にもなるからという理由だった。将来どうするなんてことを話し合ったこともなかったし、特に考えたこともなかった。だから、突然別れを切り出されても、俺には何も言えなかった。実際、生活に違和感を持ったのは半月ほどで、俺は一人暮らしに慣れていった。
それからの人生は平坦だった。仕事もそこそこ、女性との付き合いもそこそこ。気がつけば五十代になっていた。友人たちは家庭を持ち、中には孫まで生まれた者もいる。寂しくないといえば嘘になるが、気ままな暮らしも悪くないと思うようにした。
そんなある日、満開の桜を見に近くの公園に出かけた。そしてふと思い出した。昔、一緒に暮らした彼女とここでよく桜を見たことを。
楽しかった……いや、若かったからだろう。あの頃は何をしても楽しかったものだ。
でも、あの後何人かと付き合う機会があったが、あの彼女ほど気の合う女性には巡り会えなかった。なんであんな簡単に分かれてしまったのだろう? 引き留めることもできたはずだ。いや、他に好きな人ができたと言われては仕方なかった。そうなる前にもっと大切にすべきだった。
そんなことを考えてベンチに座っている俺の前を、一人の女性が通りかかった。何気なく目を合わせた瞬間、互いに「あっ」と声を上げた。こんなことってあるのだろうか! たった今思いに耽っていた女性が目の前に現れたのだ。
中年の男女が突然の再会。俺の隣に座った彼女に、俺は正面を向いたまま話しかけた。
「あの時の人とは一緒なのか?」
「あの時の人?」
「好きな人ができたと言って、俺の前から消えたじゃないか」
「ああ」
彼女は遠くを見つめながらつぶやいた。
「そんなこと言ったわね」
「結婚したのかい」
「結婚? あれねウソ」
「ウソって好きな人ができて出て行ったわけじゃないってことか?」
「ええ、あなたが教職につくのに私生活が影響するかもしれないと思ったし、私も希望の仕事についたところで、夢を追いたかったから」
「じゃ、そう言ってくれればよかったじゃないか」
「ええ、でもそれって別れ話になるじゃない? なんか面倒だったのよ。話し合いを飛ばしてさっと出て行く方法があれだったの」
「まあ、もう遠い昔のことだけど、なんだか納得できないな」
「結局独身を通すことになっちゃった。あなたは奥さんいるの?」
「いや、俺もずっと一人さ」
「お互い良縁に出会えなかったわけか。それならあの時結婚しておけばよかった、なんてね」
「……」
「じゃ、私いくわ。元気でね」
彼女の後ろ姿を見送りながら、このまま別れて良いのかという焦りが湧いてきた。でも今さらなんて言えば……。
「おい、俺さ、来年もここに桜を見に来るよ」
振り返った彼女は、そう、とだけ言って去って行った。
そして、一年がたち桜の季節が訪れた。俺は公園に通い、同じベンチで待ち続けた。でも、彼女が来ることはなかった。桜たちはそんな俺を慰めるかのように花開き、散っていった。
翌年も翌々年も、桜の時期が来ると俺はその公園で彼女を待った。
そして、三年目の春、ベンチに座り、今年がダメならあいつはもう来ないと諦めることにした。
満開が過ぎようとし、明日は嵐の予報、今日が最後か、と思いながらベンチに座っていると、見覚えるのある姿がこっちへやって来るではないか! 待ちに待った瞬間なのにいざとなると、俺は何て声をかければいいのかわからない。
「元気そうだね」
まずそう声をかけた。そして、素直に言った、言葉を選ぶことなく。
「ずっと君を待っていた。三年間。いや、あの時からずっとかもしれない」
俺の視線から目をそらし彼女は言った。
「この桜たちに誘われたのかなぁ。
実は去年の暮れにね、長年介護していた母を見送ったの。三年前ここに来たのは、介護に疲れてちょっと逃げ出してきたんだ。そしたら、あなたがいて本当に驚いたわ」
「大変だったんだ」
「ええ、でも自分なりに孝行したつもりだから後悔はないわ。この前、桜の下でのあなたと会えたから、若い頃の元気を取り戻すことができた。そしてまたがんばる気になれたのよ。それって桜のおかげかな、それともあなたのかしら」
「なあ、やり直さないか、あの頃の続きを」
何度も言いそびれた言葉が自然と口をついて出た。彼女の桜を見上げる目に光るものを見つけた時、俺はそれが返事だとわかった。
作品名:ショートショート集 『心の喫茶室』 作家名:鏡湖