ショートショート集 『心の喫茶室』
ー3ー 余命
私の余命はあと三十年……
別に、医者から告げられたわけではない。平均寿命まで生きたとしての残された年数だ。
最近思うことがある。歳を重ねたことでいろいろなことが変わったと。
朝の新聞に入っているチラシ一つをとってもそうだ。
結婚当初はスーパーのチラシが最重要情報だった。生活を切り詰めるため複数のチラシを比較しては、たとえ遠くても一円でも安いスーパーへと自転車を走らせたものだ。それが専業主婦である私の仕事だったのだから。
そうした努力の積み重ねもあってか、生活が安定すると、次はマンションのチラシが目につくようになった。スーパーのそれとは違い、紙も厚くて上質でいかにもゴージャスだ。イメージが何よりも大切だからだろう。庶民の心をくすぐるようなモデルルームの写真とキャッチコピーが目を引き、肝心な諸経費などの情報は、下の方に目を凝らさなければ読めないような小さい文字で並んでいる。
間取り図に自分の家族の部屋を割り当て、想像の世界を楽しみ、宝くじが当たったら買おう、最後はいつもそう思ってチラシを捨てた。
そして、なんとか長期ローンを組んでマイホームを手に入れた頃、女としての華を咲かせる年代であることに気づいた。輝く宝飾品もブランドのバッグも、今こそ身につける最高のタイミングだ。今を逃せば、ただの金持ちの象徴となるだけ、そうだ、今しかない! だが、今はお金がない……教育費と住宅ローンに追われ、それどころではなかった。
そして、現在。
久しぶりに、マンションのチラシが目に止まった。豪華な見た目も、最新の設備も、もはや興味をひかれることはない。住まいに必要なのはバリアフリーくらいだ。
ファッションにもとんと縁がなくなった。シニアファッションがいくらもてはやされても、それはごく一部の人にしか似合わない。今の私にとって、服は快適であればそれでいい。
人生なんてそんなものだ。欲しい時には手にすることができず、時を過ぎればもう不要な環境になっている。
そして、今になってわかった。いつまでも変わらず必要なものは形なんかない、目に見えないものであるということを。
家族や友人、生きがいとなる趣味や楽しみ。
そして、もうひとつ気がついたことがある。それは何事にも完ぺきを求めてはいけない、ということだ。そうでないと、大切な人間関係や趣味を失いかねない。
どんなに親しくてもいつも楽しいばかりではないし、大好きな趣味もうまくいかない時だってある。物事、自分のいいようにばかりはいかない、それを忘れてはいけないのだ。
親しくても適当な距離を置き、楽しくてものめり込み過ぎないこと。一喜一憂して振り回されたのでは何にもならない。
そう、「いい加減」が大切なのだ。
さあ、与えられた余命を、楽しく、そして「いい加減」に生きていこう。来年も再来年も、いつか来るその時まで。
作品名:ショートショート集 『心の喫茶室』 作家名:鏡湖