ザ・定年
千鶴のケース
「ねえ千鶴さん、毎日、ダンナが家に居るってどんな感じ?」
私は一番に聞きたかったことを単刀直入に聞いてみた。
「そうねえ、最初の一週間は毎日が日曜のようで、こちらもリラックスできた感じだったわね。ちょっと新鮮に思えて、ほんの少しだけど新婚時代が頭をかすめたりしたわ」
「へ~、けっこういいものなんだ。でも、最初の一週間ていうのが気になるわね」
「ええ、そう、そんな雰囲気は最初だけだった」
桜のつぼみがまだ固いこの日、私と千鶴はコーヒーショップの窓際の席から、寒々しい桜並木を見ていた。
「主人が現役の頃は、朝、いってらっしゃい、って送り出せば、後は私の自由時間だったわけじゃない?
さっさと家事を済ませて、お菓子を手にテレビのワイドショーを見るもよし、コーヒーを飲みながら借りてきたDVDで映画鑑賞するもよし。外へ出て友だちとランチなんていうのもありだったわ。
それに、主人が家で夕食をとるのなんて週の半分くらい、それも急に戻れないなんてこともあるから、食事の支度もすっかり手抜きになっていたし」
「そんな専業主婦天国が脅かされる事態になってしまったっていうこと?」
「その通り。もう、私なりの生活パターンが出来上がっていたのよね。それが見事に崩されてしまって。やっと訪れた理想的な暮らしだったのに」
「それを言ったら、ご主人の方だって、定年後の今が理想的な暮らしなんじゃないの? 長年ずっと家族のために働いてきたんですもの」
「あら、それを言うなら私だって、子どもを育てていた頃はそれは大変だったのよ。家のローンや子どもたちの学費のために共稼ぎでフル回転。その頃は私、主人以上にがんばっていたと思うわ、主婦業と育児、そして仕事と何役もこなしていたんだもの」
「まあ確かにね、私たち世代の夫は、家事に協力的ではなかったわね」
「そうでしょ。この前、家事を分担しているという娘に、いいダンナね、って言ったら、今時普通よ、ですって」
「時代が違うのよ」
「まあね。でもそんな私にもようやくその時が訪れたの。子どもたちが巣立って、家のローンの返済も終わって、仕事も辞めて念願の専業主婦になる時が。
すべてから解放されてやっと手に入れた自分中心の生活……それがパッと消えて主人のためのおさんどんの毎日よ、もうやんなっちゃうわ」
「でも嫌なことばかりじゃないでしょ? 楽しいことだってあるんじゃない?」
「ないない。主人たら私の話なんてろくに聞いてないから、話しかけてもひとり言と同じ。それにテレビの好みも全く合わなくて、お互い専用にテレビとビデオデッキまで買う羽目になったのよ。まったく年金生活だっていうのにね。そして結局、日中は別々の部屋で過ごすようになったわ」
「やだ、家庭内別居みたいなこと言わないでよ」
「でも、そうしないと息がつまりそうなのよ。平日何十年も家に居なかった人が、ずっと家に居るってホント疲れるものよ。
―亭主達者で留守がいい―
本当にそうね、身に染みたわ」
「でも千鶴さん、前に、自分たちはすぐに子どもができたから、夫が定年になったら新婚時代をやり直すんだ、な~んて言ってなかった?」
「ええ、たしかにそんなこと思ってたこともあったわね。そんな絵空事の夢は一週間で醒めたってこと、完全に前言は撤回」
「そうなの……」
「年月がたつと人って変わるものね。あの頃は清潔感にあふれていた主人が、今ではそんな欠片もなくなってしまったのよ。年寄りくさいというか」
「そんなこと言ったら、ご主人が可愛そうだわ。誰だって年は取るものよ。私たちだって偉そうなこと言えないでしょ?」
「まあ、そうなんだけど。あの人、若い頃は本当に素敵だったのよ。離れたくない、ずっとそばにいたい、そう思ったもんだわ」
「あら、それはごちそうさま」
「実は今日も、隣の家電屋にいるんだけどね」
「え! じゃあ、待たせているってこと?」
「見たい家電があるからって付いてきたの」
「まあ、わかりやすい口実ね。ってことはこれからデートってわけね。いいじゃない。おさんどんだなんて嘆いてないで、仲良く買い物して一緒に料理でもすれば?」
「まさか、主人が料理?」
「ええ、今ならきっとしてくれるわよ」
「どうかしら……でもしてくれたら助かるわ」
「まあ、うまく誘導することね、時間をかけて」
「そうね、そうしてみようかな。そちらは来年だったわね、定年」
「ええ、いろいろ話が聞けたから参考にさせてもらうわ。じゃそろそろ出ましょうか。ご主人お待ちかねでしょうし」