ザ・定年
美里のケース
「ウチはとうとう来年に迫ったけど、美里のところもあと二年ね、夫の定年」
「そうね、とうとう運命の時がやって来るんだわ」
「やだ、運命だなんて大げさね」
「いいえ、私にとってはまさしく人生の岐路になるのよ」
初夏のような陽気のこの日、窓の外の通行人は上着を手に、日陰を選んで歩いている。そんな様子を見つめながら、私は今シーズン初めてのアイスコーヒーを注文した。
「それ、どういう意味?」
「実は、離婚届を用意してあるの」
「ええ!」
「あと、もう少し近づいたら航空券も用意するつもり」
「何、家出でもする気?」
「いいえ、チケットは二枚」
「何ですって! まさか誰かと逃避行!?」
「そんなわけないでしょ! 主人の分よ」
「ますます訳がわからないわ」
「主人が五年の定年延長を決めた時、私には事後報告だったのよ。それってひどいと思わない? すごいショックで、とても納得できなかったわ」
「それは相談してほしい気持ちはわかるけど、仕事を辞めるというのならともかく、続けるのなら問題ないんじゃないの?」
「いいえ、私はその日をずっと待っていたのよ。それなのに延長を自分だけで勝手に決めたりして!」
「何、会社を辞めてほしかったわけ?」
「途中で辞めるというわけではないわ。定年よ」
「それはそうだけど、そんなにご主人に家に居てほしいの?」
「ええ、そう。夫婦仲良く穏やかに暮らしたいの」
「それで離婚届って矛盾してない?」
「私の中ではしていないわ。私の希望が通らないなら夫婦でいる意味がないんですもの」
「そんな大事かしら」
「私にとってはそうなの。だって私がこのまま黙っていたら、おそらく主人は次も働き口を探すと思うの。前の時は同じ職場で再雇用という形だったけど、もうそれは無理だと思うから、どこか違う職場を探すでしょうね。主人は無職という肩書に耐えられないのよ。それって変なプライドだと思わない?」
「そうかしら、むしろ立派だと思うわ。年金に頼らず、働けるうちは働こうってことでしょう?」
「じゃ、私はどうなるの?」
「私って?」
「私たち夫婦は子どもに恵まれなかったでしょ? だから私も仕事を持っていて、それなりに充実していたわ。でも、主人の母が倒れて、私たちが実家に入ることになったの。それで私は仕事を辞めたわ」
「そうだったわね、偉いと思ったわ」
「まあ、それは仕方ないのよ、主人はひとり息子だったから。でも、その義母を見送って主人との生活に戻った時、なんだか心が空っぽになったというか。その頃からかな、主人の定年を待つようになったのは」
「子どもさんがいないからかもしれないけど、子どもなんて大きくなってしまえば家にも寄りつかなくなったりするものよ。私たちの歳になれば、どちらにしても寂しさに変わりないと思うけどな」
「でも、結婚すればお嫁さんを連れてくるし、孫だって遊びに来るでしょ? ランドセルなんか一緒に買いに行ったりするとか……。そういう変化というものが何もないのよ、ふたりだけだと」
「まあ、そうかもしれないけど。じゃ、また仕事でもすれば、って言っても私たちの年齢じゃ難しいか……」
「でしょ? だから主人が定年を迎えて時間が出来たら、夫婦で食事や旅行など、残った人生を一緒に楽しもうと思っていたの。私のそんな思い、主人はまったくわかろうとしてくれない」
「ちゃんと話してみたの?」
「それとなく伝えてきたわよ、この間の定年延長の後からは特にね。定年後は健康なうちにふたりで国内、海外と旅行に行きたい、そのためにお金も貯めてきた、と」
「それで?」
「いつも聞き流されたわ。もっとも、主人の方も男としていつまでもバリバリ仕事がしたい、そんなようなことをよく言ってたのを私も聞き流していたけどね」
「それじゃ、お互いさまじゃない」
「ええ、だから、どっちの思いが強いか、私は実力行使にでることにしたの」
「それが、離婚届と航空券……」
「ええ、そう。主人にどちらかを選んでもらうつもり」
「妻、つまりは家庭か仕事のどちらかを選べってこと?」
「働き盛りの夫に対していっているわけじゃないのよ。定年後の夫への言葉ですもの、私、間違っていないわよね?」