龍の巫女 後編
「かはっ!」
「アマネ!!」
ミコトの声が遠くに聞こえた。落下した衝撃で強制的に空気を吐き出させられる。切り裂かれた胸から血が滴り落ちていく感触がした。
だが、生きている。
・・・・・・ミコト様に頂いた呪符のおかげか。
洞窟で遭遇した影と対峙する前の準備として渡された物。ミコトは「気休めにはなる」と言っていたが、あの爪に襲われてこの程度で済むのだから侮れない。
水神の加護を失っても、巫女としての力が無くなったわけではないのだ。そんな場合ではないと分かっていても、アマネは胸をなで下ろした。
「これを持っていけ! 決して離すな、山の社まで逃げろ、早く!!」
ヤスケが慌てて走り出し、二匹の獣も後を追う。あれでは追いつかれてしまうのではないだろうかとぼんやり考えていたら、
「アマネ!!」
ミコトの声が、今度は近くに聞こえた。痛む体を無理矢理起こして、アマネは大丈夫だと笑ってみせる。
「大したことはありません。ミコト様の」
「喋るな! 今傷を塞ぐ。じっとしてろ」
「いえ、この程度」
「喋るなと言っている!」
ミコトは乱暴にアマネの着物をはだけさせると、切り裂かれた肌に手を置いた。ミコトの触れた部分から、じわりと熱が伝わってくる。
温かく包み込むような、心地よい感触。アマネは目を閉じて深く息を吐いた。
ああ・・・・・・これが・・・・・・ミコト様のお力・・・・・・。
じわりじわりと痛みが引いていき、流れ落ちていた血が止まる。胸に赤い傷跡が残るのみとなり、ミコトが「痛みは?」と聞いてきた。
「もう何も。全て治りました。ミコト様のおかげで」
「馬鹿!!」
アマネが言い終わる前に勢いよくつかみかかってきたミコトは、ボロボロと涙をこぼしながら怒鳴りつけてくる。
「お前まで私を置いていこうとするな!!」
その剣幕と、初めて見るミコトの涙と、発せられた言葉に、アマネは圧倒された。
ミコトの、三百年の孤独を思い知って。
「ひっ・・・・・・うぅ・・・・・・」
堰を切ったように泣き出すミコト。アマネは小さな体にそっと腕を回すと、柔らかく抱き寄せる。
「申し訳ございません、ミコト様」
決して、貴女を一人にはしない。アマネは胸に固く誓った。
「・・・・・・持っていろ」
落ち着いたミコトはヤスケが落とした守り袋を拾い、アマネに放る。
朱色の守り袋は手にひやりとした感触を伝えてきた。
「簡単な呪符だが、化け物除けにはなる。ついでに夫を思う妻まで避けてしまったがな」
山の社で、ヤスケはミコトから渡された櫛を握りしめ震えていた。その側に寄り添うユリ。目の前には二匹の化け物。
ユリはそっとヤスケの腕に手を伸ばしたが、触れることは出来ずにすり抜けてしまう。今はまだ、櫛に残された土地神の力でヤスケに危害を加えられることはないが、その力も急速に失われつつあった。
じりじりと獣が距離を詰めてくる。あの宿は獣達の巣。旅人を誘い込み、目星をつけ、言葉巧みに山へと誘い込んで食らう。ヤスケは獲物を誘い込む餌といったところか。料理と温泉が売りの宿。目立たず、ありきたりで、誰の注意を引くこともない。
正体を知られた以上、ヤスケを生かしておくはずがなかった。
あの守り袋があれば・・・・・・。
忌々しい呪符のせいでヤスケの側にいられなくなるが、化け物二匹に襲われるよりはましだ。
ユリの姿は、この場の誰にも見えていない。ユリは彼らに触れることが出来ない。目の前をうろつく獣どもにヤスケが切り裂かれるのを、ただ見ている事しか出来ない。
村の若者達が悪ふざけで社を荒らし、御神体を盗んで捨てた時も。ヤスケが流れ着いた宿の夫婦が獣に食われ取って代わられた時も。ただ見ていることしか出来なかった。
絶望に心が押しつぶされそうになりながら、ユリはヤスケに手を伸ばした。触れることが出来なくても、最後まで共に。
「ぐああああああああああああああああ!!!!」
しびれを切らしたのか、獣の咆哮が響く。ヤスケが怯えたように身を縮めた。せめてとユリはヤスケを庇うように身を投げ出す。獣達が飛びかからんと身を低くした時、
「ぎゃああああああああああああああああ!!!」
背後から火の手が上がる。獣の一匹に火がつき、毛皮を舐めるように広がっていった。もう片方の獣が振り向いた先に、二人分の人影。
「ミコト様!」
アマネが松明を振り回し、獣を牽制する。その脇をすり抜けて、ミコトがヤスケに駆け寄った。
「貸せっ!」
「えっ!? うわっ!!」
ヤスケの手から櫛をもぎ取ると、ミコトは獣の前に仁王立ちする。ユリは固唾を呑んでその姿を見つめた。
「あなたも、二人を守りたいのでしょう?」
ミコトの言葉に応えるように、櫛から光が溢れ出した。まばゆい輝きに獣達が怯む。光はミコトの体を包み、無数の粒となって消えた。
『さて』
静まりかえった場に、呟くような声がする。それはミコトの声でありながら、まるで違って聞こえた。見たところ何も変わったところはない。けれど、そこにいるのは
『我が土地を穢した罪、償ってもらうぞ』
言葉と共に周囲の影がまるで蛇のようにうねり始める。幾筋もの影が獣達にからみつき、その体を覆っていった。
「ぐ・・・・・・がああああああああああああああああああ!!!!」
断末魔の叫びも影が飲み込み、暴れる巨体を押さえこんで、やがて何事もなかったかのように消える。
「・・・・・・はっ」
呆然とするユリ達の前で、ミコトが息を吐き出し膝をついた。アマネが慌てて駆け寄る。
「ミコト様! 大丈夫ですか!?」
「・・・・・・大丈夫だから、静かにしてくれ。頭に響く」
ぐったりしたミコトの体を、アマネが抱き上げた。ミコトは頭をもたれかけて、ふーっと息を吐く。
「大丈夫か・・・・・・?」
恐る恐るといった様子で、ヤスケが声をかけた。
それは二つの意味があるのだろう。ミコトの身を案じるとともに、脅威は去ったのかと。
ミコトはうっすら目を開け、
「・・・・・・土地神を降ろしたんだ。この程度で済んだのは運がいい」
「全く、無茶をなさる。儀式もなしに神を降ろすなど」
「・・・・・・ぐうの音も出ないな」
アマネの言葉にミコトは深く息を吐くと、もぞもぞと体を起こす。
「ミコト様、まだ動いては」
「約束だからな」
ミコトはふらつきながらユリに近づき、その手を取った。
「土地神が力を分けてくれたからな、もう少しましな体をくれてやろう。一晩だけだが」
つないだ手から、温かさが流れ込んでくる。それはユリの全身を柔らかく包み、抗いがたい眠気をもたらした。一瞬意識を飛ばしたユリは、慌てて頭を振って目を開く。
そこには、目を見開いたヤスケの顔。戸惑うユリの手を引き、ミコトはヤスケの手を重ね合わせた。
温もりが、そこにあった。
すり抜け、触れ合うことなど出来なかったはずの手が、感じることの出来なかった温かさが、そこにある。
「ユリだよ。お前の妻だ」
ミコトの声が、これは夢ではないと告げていた。ヤスケが目を見開いたまま、恐る恐る手を握ってくる。
「ユリ・・・・・・? まさか、あの・・・・・・お前が・・・・・・?」