龍の巫女 後編
「ヤスケさん・・・・・・!」
ユリの目から涙が溢れ出した。若くして命を落とした自分にあてがわれた「夫」。ただそばにいて時の流れを眺めるだけだった相手が、自分の名を呼んだ、その意味を。
「ほら、戻るぞ」
ミコトにつつかれ、アマネは我に返る。
「戻ると言われましても、何処に?」
「宿にだよ。まだ雨風は凌げるだろう?」
ミコトは面倒くさそうに首を回すと、涙を流して互いの名を呼ぶヤスケとユリを示し、
「それとも、一晩眺めているつもりか?」
「いえ・・・・・・そうですね。戻りましょうか」
あの二人はどうするのかと言いかけて、アマネは口をつぐんだ。ミコトは肩をすくめて、「子どもじゃないんだ」とだけ言う。
それはどちらを差してのことだろうかと考えたが、アマネは首を振ってミコトの手を取った。
「お体が冷えてしまいましたね。湯の支度をしましょう」
「温泉なんだから、いつでも入れるだろ」
「御神体はどちらに?」
「ヤスケの袂にねじ込んでやったわ。獣に食い荒らされた死体など見たくないからな」
やはり、お優しい。アマネは声に出さず呟く。
ひやりとした手の感触を確かめながら、ミコトとともに宿へと向かった。
翌朝。
簡単な食事を済ませてアマネとミコトが社に戻ると、山の奥からヤスケが一人やってきた。赤い目をしていたが、顔は晴れ晴れとしている。
ミコトは首を傾げ、「別れは済ませたか?」と聞いた。
ヤスケはうなずき、手に持っていた櫛を差し出す。
「何もかも・・・・・・本当に、ありがとうございました。どうぞ、これは貴女様がお持ちください。必要なものだと、ユリから聞きました」
ミコトは櫛を受け取ると、ふんっと鼻を鳴らし、
「もっとましな使い方がある」
そう言って、社に置いた。
「アマネ、笛は持ってきたか?」
「はい、ミコト様。いつでもどうぞ」
ミコトはすいっと手を上げると、風にたゆたうように舞い始める。アマネの笛の音がそれに乗り、まるで桃源郷のような光景が広がった。
アマネは横目でヤスケの様子を確認し、満足げに目を細める。
きっと、彼にとって一生の思い出になるだろう。
ヤスケの紹介で船に乗せてもらい、アマネとミコトは島を後にした。
あの宿は夫婦の親戚を捜して引き継ぐことにし、ヤスケはユリの墓参りに行きたいのだと言う。その後のことは、また考えると。
「本当に良かったのですか? ミコト様」
アマネの問いかけにミコトは海を眺めながら、
「土地神がいなければ島は荒れる。民を犠牲にする巫女に太平を祈る資格などない」
アマネは、その言葉にじっと黙り込む。ミコトの言うことは当然であり、持ち帰るような方なら自分は仕えていない。それが分かっていてもなお、これで良かったのかと悩む自分がいた。
今回のことを、長老方はどう受け取るか・・・・・・。
「・・・・・・正直にお話すれば、長老方も分かってくださいますよ」
アマネの言葉に、ミコトは気のない様子で「そうかもな」と応えた。
ミコトは黙って長老達を見回した。
どの顔も怒りと困惑に満ちている。ミコトは笑いそうになるのを堪えながら、手をついて頭を下げた。
「・・・・・・もう一度、お聞かせ願います。御神体はいずこに?」
「ありません。海に落としましたから」
困惑する長老とは対照的に、ミコトはきっぱりと言葉を返す。
『御神体を手に入れたが、帰路で海が荒れ、落としてしまった』
それが、ミコトが長老達に告げた顛末だった。
「なんということだ・・・・・・!!」
「御神体が失われたなんて・・・・・・!!」
「水神様がお怒りになる・・・・・・!!」
ざわめきが場を支配し、徐々に声が高くなる。
「水神様がお怒りなのだ・・・・・・!!」
「この者は呪われている・・・・・・!!」
「いますぐ放り出せ・・・・・・!!」
その時、年かさの長老がさっと手を上げた。途端に水を打ったように静まりかえる。
「これで分かりました。貴女を巫女に選定することを、水神様は望まれていないのです。海が荒れたのも御神体が失われたのも、水神様のご意志でしょう。加護を失った貴女をこれ以上置くわけにはいきません。今すぐ立ち去りなさい」
静かな、怒りを含んだ声。だが、ミコトは動じることなく顔を上げると、了承の印に再び頭を下げた。
全く、分かりやすい者達だ。
旅の荷物をそのまま持ち、ミコトは門へと向かう。周囲では従者達・・・・・・元従者達が、ひそひそと言葉を交わしていた。
からかってやろうかとミコトが足を止める。ぴたっと囁き声は止まり、息を潜めるようにこちらを伺う視線が向けられた。
そんなに私が怖いか。もう龍の巫女ではなくなったというのに。
ミコトは薄く笑いを浮かべると、周囲に「達者でな」と声をかける。気まずげな視線を交わし、身じろぎする者達に背を向けて、ミコトは門をくぐった。もう、ここに戻ることはないだろう。
「ミコト様」
門を出てせいせいしたとばかりに歩を進めていたら、横からかけられた声にミコトは飛び上がる。
「なっ!? なん、おまっ、な、えっ!?」
「ここでお待ちしたほうが確実だと思ったもので。中で騒ぎを起こすのもまずいでしょうし。さ、お持ちしますよ」
動揺するミコトに構わず、アマネはミコトの荷物に手をかけた。
「なっ、ま、待て! 私はお前を連れていく気はないぞ!」
「またそのような我が侭をおっしゃって」
「我が侭ではない! だいたい、私はもう巫女ではないのだ。お前がついてくる理由はないだろう」
「そうですか。ところで、何故長老方に嘘をついたのです? 正直に話せば、こうも性急に追い出されるようなこともなかったでしょうに」
ミコトはむうっと口を閉ざすと、しばし逡巡してから、
「・・・・・・あいつらが嫌いだからだ。試練などと称して御神体を盗んでくるようそそのかすなど。御神体を失った土地がどうなるか、知らぬはずもあるまいに。なくしたと言っておけば、もうあの島に興味を持つこともないだろう。しばらくは、水神様の怒りに怯えているがいいさ」
それを聞いてアマネが笑い出す。ミコトは「笑い事ではない」と口をとがらせた。
「やはり、貴女様以上に御役目に相応しい方はおりません」
アマネの言葉に、ミコトは静かに首を振る。
「いや。私は守るものを間違えたのだ。民の為でなく、自分の意地の為に巫女の座に執着した。加護を失ったのは自業自得だよ」
ふっと息を吐き、アマネを見上げた。
「お前には苦労をかけどおしだったな。今までよく仕えてくれた。礼を言う。もう私に縛られるな。私が役目を解かれたように、お前も自由に生きてくれ」
「私は、最後までお供いたしますよ、ミコト様」
「もう巫女ではないのにか? そんな義理はないぞ」
「貴女を一人にしないと、誓いましたから」
「・・・・・・・・・・・・」
アマネに引く気がないのを悟り、ミコトは視線を逸らす。
言葉にしてしまうと、全てを失うのではないか。そう思っていたのに。
「・・・・・・酔狂な奴だな」
笑おうとしたが、声が震えて上手くいかない。
全て失うかもしれない。怖い。
けれど、三百年待ったのだ。