龍の巫女 後編
この島の山間にある社、そこに祀られている御神体を持ってくることが、長老達から言い渡された試練だ。ミコトとアマネは難なく社を見つけるが、一目で荒らされていることが分かるほど酷い有様だった。
「これは・・・・・・」
アマネは念の為と中を覗くが、御神体は影も形もない。じとりと汗がにじみ出て、鼓動が早くなる。御神体がなければ、ミコトは役目を降りなければならないのに。
「ミコト様」
アマネが振り向くと、ミコトは気のない様子で視線を周囲に向けている。再度呼びかけると、やっと気づいたかのようにアマネの顔を見た。
「なんだ?」
「御神体がありません・・・・・・」
「見れば分かる」
ミコトは気怠げに息を吐くと、「面倒なことばかりだ」と呟く。
「いったん宿に戻るぞ。ここで立ち尽くしていても仕方ない」
「はい。あの・・・・・・これからどうしますか?」
「うん? お前はどうしたい?」
深淵をのぞき見るような目を向けられ、アマネは言葉を失い立ち尽くした。心の内を見透かされているようで、ただ焦りだけを覚える。
ミコトは、また息を吐くと、
「私は湯に浸かりたい。全く、ここは冷えるな」
「あ、はい。すぐ戻りましょう」
慌ててミコトの手を取ると、ひやりとした感触が伝わってきた。今は御神体の行方よりも、ミコトが風邪を引かないことのほうが重要だ。
「体が冷えてしまいましたね。気づかずに申し訳ありません」
「まあいいさ。御神体がここにないと分かれば」
それ以上はなにも言わず、ミコトはおとなしくアマネに手を引かれる。ミコトはこの事を予測していたのだろうかと考えながら、アマネは慎重に山道を下った。
玄関から女将の声がする。
出かけていたあの二人客が帰ってきたようだ。ヤスケは自分も顔を出そうか迷ったが、自分がでしゃばることではないと考え直した。
女将も主人もなんだか朝からピリピリしていて、ヤスケも落ち着かない。自分が何かしでかしたかと思ったが、二人とも何でもないと言ってそそくさといなくなってしまう。
あの二人客のせいだろうか。取り立てて騒ぎを起こすでもなく、静かなものだが。
気候のせいかな。最近海が荒れることも多く、漁師達が困っていた。きっとその空気に当てられたのだろう。
そういえば、山に古い社があったはずだ。今度お参りにでも行ってみるか。
ヤスケはやれやれと首を振って、昼の仕込みを再開した。
少し熱めの湯に身を浸し、ミコトは唸りながら伸びをする。目を開けると、ユリが顔をのぞき込んでいた。
「ねえ、山の社に行ったの? 何の為に?」
「御神体を盗む為だよ」
ミコトの言葉に、ユリはくつくつと笑う。
「必要なの? 私、どこにあるか知ってる。教えてあげてもいいわよ?」
「ほう、それは親切なことだ」
「ヤスケさんに渡したお守り、あれを取り上げてくれたらね」
ミコトはじっとユリを見つめた。美しい娘。早くに命を落とし、見知らぬ相手を婿とし、一途に慕っている・・・・・・
「御神体の在処を教えるなら、ヤスケと話せるようにしてやるぞ?」
「え?」
ユリが目を見開いた。そんなことが出来るのかという疑いと、わずかな希望に縋りたい気持ちがせめぎ合っている。そんな顔。
「私にもまだ巫女としての力が残っている。お前に仮初めの体を作ってやるくらいにはな。一晩しか持たぬが、十分だろう?」
「・・・・・・・・・・・・」
逡巡するユリに、ミコトは目を細める。
「早くしなければ、時が私に追いつき、力を失うぞ。それとも、別の機会を待つか?」
「・・・・・・本当に、ヤスケさんと話が出来るの?」
「一晩だけ、だがな」
「・・・・・・ひ、一言でもいいのっ! 言葉を交わせるなら! だからお願い!」
「御神体は?」
突き放すようなミコトの問いに、ユリはさらに山深く進んだ洞窟にある櫛がそうだと言った。
ミコトは湯から立ち上がる。幼く小さな体から、いくつもの滴が垂れた。
「櫛を取ってきたら、お前の願いを叶えてやる。それまでおとなしくしていろ」
アマネは先に立って藪をかき分けながら、後ろをついてくるミコトを振り返る。
「ミコト様、後どのくらいでしょうか?」
「さあな。そろそろ見えてくるのではないか? 私が間違えていなければ」
「ミコト様に間違いなど・・・・・・」
「あるだろうさ。私も人だ」
その言葉に、アマネは視線を逸らした。
三百年生きたミコトは、人といえるのだろうか。そして、また巫女に戻ることを願う自分は・・・・・・。
「あれではないか?」
ミコトの声に顔を上げれば、崩れた岩の陰に暗い穴が見える。アマネは、「まずは私が」とミコトに声をかけ、岩陰に近づいた。
持ってきた角灯に火を灯せば、ゆらりと暗闇が取り払われる。背後からミコトの近づいてくる足音がした。
「ふむ。どうやらここのようだな」
「私が先に。ミコト様、離れないようお気をつけください」
「分かっている」
細い一本道を進むと、ぽかりと開いた箇所に出た。天井は高く、眼前に岩肌がそびえる。どうやら行き止まりらしい。
「ここまでのようですね」
アマネが角灯を持ち上げ、あちこち照らしてみたが、他に通れそうな道はなかった。ミコトが壁際の石に近づいてかがみ込むと、何かを拾い上げる。
「目的の物が見つかったようだぞ」
「えっ! それでは!」
「御神体はこれであったのだろう」
ミコトの手の中に、艶やかな櫛が収まっていた。野ざらしにされていたとは思えないほど美しく、歯が欠けるどころか、傷の一つもない。
アマネは息を呑み、長々と吐き出した。
「良かったですね、ミコト様」
後はこれを持ち帰るだけだが、ミコトは何故か浮かぬ顔で櫛を見つめている。
「ミコト様・・・・・・?」
アマネが声をかけた瞬間、ミコトははじかれたように顔を上げ、
「伏せろ!!」
咄嗟に身を投げ出したアマネの頭上を、太い鉤爪が通り過ぎた。あのまま立っていたら、上半身を持っていかれただろう。考えるより早く、アマネは手に持っていた角灯を投げつけた。
「ぎゃああああああああああああああああ!!!!!」
大音量の絶叫に、洞窟全体が震える。正体を確かめるよりミコトの身を守るほうが先と、アマネは飛びついてミコトの小さな体を抱き締めた。
地鳴りのような足音が遠ざかり、洞窟内が暗闇に包まれる。アマネは息を詰め、ミコトの盾となるべく背を丸めた。わずかにでも、自分の主に傷を付けさせまいと。
どれだけの時が経ったのか。永遠か。一瞬か。己の呼吸と心音だけが響く中、
「アマネ・・・・・・苦しい」
ミコトの微かな声に、アマネは慌てて腕を解いた。
「申し訳ありません、ミコト様。お怪我はありませんか?」
「ない。お前は?」
「何も・・・・・・ただ、灯りがなくなってしまいました」
「壁に手をつけて進めばよい。他に道はないようだから、外に出られるだろう」
暗闇の中、ミコトがアマネの手を握ってくる。はぐれない為には当然のことなのだが。
二度目だな・・・・・・ミコト様から触れてきたのは。