赤秋の恋(美咲)
電車が来るアナウンスがあり、宏は乗り場のラインで囲まれた中に進んだ。乗客は10人足らずであり、宏の後ろに1人の青年が立っていた。電車がホームに入って停車した。宏はドアの開くのを待っていたが、5秒ほど待ったが開かなかった。後ろの青年が
「ボタンを押すんです」
と言ったが、どこにそのボタンがあるのか戸惑った。青年がその様子を見て、ボタンを押してくれた。宏は先ほどの女性でなくてよかったと思っていた。2度もへまをすれば完全なぼけ老人に見られてしまいそうだ。
乗客は少なく座席に座れた。宏は無頓着に座ってしまってから、自分の目の前に30歳くらいの女性がいることに気づいた。幸いに女性はスマホを見ていた。10人ほどの乗客の半分はスマホを見ていた。こんな時に目の前の乗客と目を合わせないためには、スマホは実に役に立つのだと感じた。宏は時代遅れの携帯であったから、久しぶりに電車からの景色を眺めたかったのだが、軽く瞼を閉じた。ただ瞼を閉じていると、眠くなりそうであった。初めて美咲に会うことで、昨晩はなかなか眠りにつけなかったのだ。しかたなく、瞼を半分開くと、女性の足のあたりが見えた。ラインの入った白のスニーカーを小刻みに動かしていた。
宏はその靴の動きが、それ以外、何も見えない中で、ステージで演じられているような感覚を覚えた。筋肉質なスリムなふくらはぎの筋肉の躍動までが感じてしまうほどであった。宏は無意識に視線を上げた。いや意識はしていたのだ。瞼はゆっくりと開いていったのだ。ロングの髪は茶色であった。少し視線を上げると、今どきの化粧をした、目鼻が整った美形の顔であった。女性は、偶然に顔を上げた。宏の視線とぶつかりあった。宏はそう感じた。宏は今まで女性を見つめ続けていたように思われなかっただろうかと、少し後ろめたさを感じたのだった。
宏はハンチングのつばを持ち眼のあたりまで下げた。電車とはこんなにも自由が利かないものだとは思ってもいなかったことであった。女性が早く降りてくれないだろうかと心でで思っていたが、終点の小山駅まで一緒であった。宏は40分ほどの時間は、苦痛に感じられたのだった。座席を移ればよいかとも考えたが、それもできなかった。