謝恩会(後編)~その手に花束を~
そう言ったのは、健太だった。昨日けんか別れしたままの彼は、眉根をよせて口元を固くむすんでいた。
健太は舞台から飛び降りて最前列の客席に座った。じっと湊人を見てくるので気まずくなったが、言われたとおり『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』の続きを弾くことにした。
健太と晴乃がラウンド・ミッドナイトに来たあの夜、心底ふたりがうらやましいと思った。なんだかんだとけんかして帰っていた二人だが、彼らには平気でけんかができる絆があるのだなと感じた。幼なじみで、年月にともなう信頼関係があって、心の通いあった二人――
湊人にそんな人間はいない。要や初音に出会ったのもたった2年前だ。一緒に過ごした時間は本当にわずかで、自分が尊敬して信頼をよせていても、相手はどうかわからない。
健太もそうだ。彼との付き合いはほんの2年程度だ。クラスは同じでも、趣味も、将来も、仲間も違う。彼には大勢の明るい仲間がいる。信頼できる同士がいる。そこには悠里もつながっている。どうやっても自分が勝てるわけがない――
ピアノの調子が強くなっていたのに気づいて、湊人は肩の力を緩めようとした。こわばった体はなかなかいうことをきかず、指先が震える。健太が見ている。この曲はこんなんじゃない、前に聞かせたときのような、おだやかで優しくてあたたかくて――
ふと気づくと健太は真横に立っていた。弾いている鍵盤ではなく、湊人を見下ろしている。くちびるをぎゅっとかみしめて、何か言いたそうな表情をしている。
――完全に嫌われたんだな。そりゃそうだ――
そう思いながらテンポをゆるめた。三拍子の終わり、高音をいくつか鳴らして、最後は低音の深い響き……
湊人がふうっと息をつくと、健太は目を見開いた。
「昨日はほんますまんかった!」
大きな声を張り上げて健太は頭を下げた。剣道部仕込みの声はホール中に響き渡り、腰は40度も曲がっている。なんだこいつ、なんで謝ってるんだ、と湊人が飛び出しそうになった心臓を押さえていると、健太は急に胴体を上げた。
「おまえの様子がおかしいのはわかってた。わかってたのに、自分のことにかまけてほったらかしてた。おまえが隠しているのにズカズカ割って入るのはあかんと思てた。でもおまえは何も言わん。そんだけめっちゃくちゃに殴られて、それでも何にも言わん。なんで言うてくれへんのや……」
驚いたことに健太は涙ぐんでいた。こぼれ落ちそうな涙をこらえながら盛大に鼻水をすすり上げている。
「昨日は完っ全に俺が悪かった。そんなボコボコの顔でもピアノ弾こうとしてるおまえに言う言葉やなかった。ほんまに勘弁してくれ」
そう叫んでまた頭を下げる。こんなきれいなお辞儀はみたことがない、と感嘆する一方で、昨日のことが思い出される。悪かったのは健太じゃない、いつだって言えないオレの方だった――そう脳裏をかすめても、言葉にできない。言おうとすればするほど、喉がつまってしまう。
「健太……オレ」
ふりしぼるように声を出したとき、健太が高速で体の前に手のひらをかざした。
「皆まで言うな! あっ違う! 何言うてんねん俺のアホ! 全部言うてくれ!」
高速ひとりボケツッコミに湊人はあっけにとられた。そんなつもりはなかったのか健太は「な?」と後押ししてくる。
その真剣な表情がおかしくなって、湊人は吹き出した。
それを合図に、二人の笑いがはじけた。
笑い声はホール中に響いた。顔を見合わせながらいくら笑っても止まらない。腹が痛くなってもおさまってくれない。
「おまえほんっと……アホだよな」
ピアノの椅子に腰かけて腹を抱えながら、湊人は言った。
「今日はアホってことにしといたるわ」
その言葉にまた湊人は吹き出した。たたみかけるように健太が「今日はやで? 明日のオレは真面目やで」
そう言って湊人を見る健太の表情にいつもの快活さが戻ってきた。健太はそうでないといけない、あんな硬い表情をさせていたのはオレのせいか、と思うと少し胸が苦しくなる。
湊人はピアノの椅子から立ち上がると、健太に頭を下げた。
「オレも悪かった。全部話す」
端的に言ったつもりだったが、重く伝わったらどうしようか、健太はどんな風に思うのだろうと、そろりと顔を上げると、健太は満面の笑顔だった。
「ほんまやな? 嘘ちゃうな? ぜったい全部やな?」
目を輝かせて勢いよく肩をつかんできた。音楽家でこんなに握力の強いやつはそういない――普段竹刀を握っている健太の姿が思い起されて、湊人は頬をゆるめた。
「全部だ」
「いよっしゃー! ほな今すぐや! あっちの誰もおらんところで……」
健太が湊人の腕を握って強引に歩き出そうとすると、パイプ椅子を抱えた吹奏楽部員がどやどやと舞台に入ってきた。
「健太……せめてリハが終わってからにしてくれ」
湊人が腕をつかまれたままにしていると、彼は豪快に笑った。それでこそ健太だった。
負傷した腕を握られると瞬間的に痛みが走る――けれどその圧から情熱が感じられて、痛みも吹き飛んでしまいそうだった。
吹奏楽部のリハーサルが終わると、悠里たちのバンドがセッティングに入った。舞台から見てちょうど真正面の上部に音響室があり、そこから宮浦が手をふっている。中には悠里の兄の陽人もいて、宮浦の指示にしたがって音響パネルを操作しているようだった。
今回、卒業生代表としてこの二人が音響係に選ばれたことを、千賀郁哉はずいぶんくやしがっていた。リハーサルの直前になって二人の姿をみた郁哉は「くそー俺もやりたかったなあ」と親愛の情がある笑顔で言っていた。彼にとってこの学年は初めての卒業生になる。教師でありながら、陽人と宮浦の前ではあんなくだけた表情をするのかと、湊人は驚いていた。
ドラム、ベース、ギター、ピアノ、ボーカルマイク、コーラスマイクの順にセッティングをし、宮浦からOKサインが出た。悠里も晴乃もサラもほっと胸をなでおろす。
あとは練習してきたことを、忠実にやるだけだと、湊人の中にも安堵が広がっていた。
あとに13組の歌やパフォーマンスのリハーサルが控えているので、湊人たちはホールの外に出た。昼食にはまだ早いが、細かい段取りの確認をするためにファーストフードショップに入った。
計画を実行するのは悠里たちの仕事で、湊人はただそれについていくだけだ。郁哉へのサプライズが成功することをただ祈りながら、ハンバーガーにかじりついた。
昼食を終えて湊人たちは楽屋に戻った。リハーサルの真っ最中なのでピアノは弾けないが、悠里と晴乃が小さな音で弾くのにあわせて、タイミングを確認したとのことだった。
「……うそやん」
ギターのハードケースに手をつっこんだ悠里の第一声がそれだった。晴乃もベースを取り出しながら「どうしたん?」と言った矢先、自分のベースを見て唖然とした。
「うそやろこれ……なんでこんなことに……」
悠里が抱えたギター、それから晴乃が握ったベースのどちらも、すべての弦が切れていた。
「……なにこれ……どう見ても誰かが切ったんやん」
作品名:謝恩会(後編)~その手に花束を~ 作家名:わたなべめぐみ