短編集49(過去作品)
と感じたのは、昨夜の夢で見たからだったからだろう。
だが、そう考えると、今度は目の前の光景を見たのがその夢だけだったのかということが怪しくなった。というのも、夢で蔵の中の光景を見た時にも、
――どこかで見たような気がする――
と思ったからだ。
まさか夜が明けて、自分が蔵を開けて中に入ってみる光景を先に意識していたなどというのも突飛な発想である。
――以前にも同じような夢を見たのかも知れない――
と考える方がよほど信憑性があるが、どれにしても簡単に納得のいくものではないだろう。
蔵の中から出てきた自伝には、確かに昨夜見た夢で語っていたことが書かれていた。
――ご先祖様が夢枕に立ったということだろうか――
どこまで信じていいのか分からないが、いずれどこかの段階で、八代が蔵を開けて先祖の自伝を見ることは運命付けられていたと考えるほかないだろう。
八代家が病気に弱く、髭を抜いたり、剃ったりしたら、いずれどこかで重い病気にかかってしまう。だから、ある程度の年齢になってからは、髭を大切にしなければならないと書かれているのだ。
ある程度の年齢というのが、十八歳だと書かれている。その時の八代の年齢が十七歳、まるで、自伝を発見することが急務だったことを示していて、発見したタイミングは、これ以上ないと言えるタイミングでもあったのだ。
高校を卒業してからの八代は髭を剃らなかった。
父親も母親も、高校を卒業し、大学に入学した八代に対して何も言わなくなった。それまで少々のことでもネチネチと小言をいい、事あるごとに苦言を呈していたのがまるでウソのようである。
大人として見てくれているのか、それとも言っても無駄だということに気付いたのかどちらかは分からない。だが、一緒に暮らしていて、そのどちらも半々ではないかという気がしてならなかった。
相変わらず髭は伸ばしていたが、キチンと理髪店で、髭の手入れについては教えてもらっていて、すっかり髭面が似合うようになってきた。
髭を生やしてからの八代は、何となく自分が男らしくなったような気がしてきて、それまでどこか気弱なところがあったことを忘れてしまうくらいだった。
しかし、それはあくまでも見た目であって、性格がそう簡単に変わるわけがない。その自覚だけは持っていたつもりだった。
大学に入ってから数人の彼女ができた。
付き合い始めるまではなかなか順調で、最初はうまく行っているのだが。なぜか付き合い始めて数ヶ月で別れることになる。不思議なことに後から思い返せば、すべて共通したパターンであった。
別れは必ず相手からで、その内容は決まっていた。
「髭、剃ってもらえません?」
と言ってくる。しかし、先祖の自伝を読んでしまった八代には、それはできない相談だった。話をしても信じてもらえるはずもないと思った八代は何とか他の理由でごまかそうとしたが、ごまかしが苦手なのか、却って怒らせる結果になる。仕方なく本当のことを言うと、
「あなたがそんな変な幻想に惑わされる人だとは思わなかったわ」
と言って、去っていく。どうやら、毅然とした雰囲気が八代の魅力で、そんな雰囲気を髭に見ていたのだろう。だが、髭を生やしている原因が、毅然とした態度とは程遠い内容であったことが相手に愛想を尽かさせることになってしまう。
――世の中ってうまく行かないよな――
と大学時代での女性との交際は、ほろ苦いものだった。トラウマにもなりかねない精神的ショックを少なからず残したことも事実だった。
大学を卒業して、地元の中小企業に就職した。就職難の中、一流企業は最初から目指していたわけではなく、地道に地元の企業で、細々とやっていくことを目指していたのだ。
作戦は成功といえるだろう。最初から大企業を目指していた連中は、就職できずに方向転換して地元企業を見たが、その時にはすでに就職戦線では遅れを取っていた。成績優秀な連中が就職浪人しているのが不思議ではない世の中だった。
事務所には女性は数人いたが、若い女性は一人だけだった。
彼女ともすぐに仲良くなり、交際するまでに発展していた。
だが、今までの経緯があることから、
――どうせ、今回もうまく行かないんだろうな――
半ば諦めの境地に達していたが、
――おや、取り越し苦労かも知れないな――
彼女は髭のことに対して何も言おうとしない。
付き合い始めたきっかけも髭にあるわけではなさそうだった。今までであれば髭を見て性格を判断していたような雰囲気があったが、彼女は決して髭を見ようとはしない。却って避けているのではないかと思うほどだ。
避けることはないだろう。避けているなら、最初から付き合おうなどという発想が生まれてくるはずもない。
一度うまく回り始めた歯車は外れることなく行き着くところまで行くのだろう。
二人の間に育まれた愛は、しっかり成就していた。それは誰も疑うこともなく、ごく自然なことだったのだろう。そうでなければ、ここまでとんとん拍子にうまく行くことなど考えられるものではない。
彼女、名前を郁子という。郁子の両親にも挨拶が済み、郁子も八代家での挨拶が済んだ。家庭的な障害も何もなく、順風満帆を絵に描いていた。
結婚するということがここまでうまく行くなんて信じられない。
人生の中でいくつか山になるところがあるというが、少なくとも一番とも言える結婚がここまで順風に進むことは、却って気持ち悪さを感じさせるものであった。そこが天邪鬼だといわれるゆえんなのかも知れないが、簡単に受け入れていいものなのか、結婚するまでは考えていた。
しかし、一旦結婚してしまうと、そんな考えはどこへやら、順風に乗ってトラウマすら消えてしまったかのようだ。
新婚という意識を持ち続け、愛情が消えることなどありえるはずのないことだと、信じて疑うことはない。そんな自分をうらやましく見ている自分がいたのだった。
ある日、首に痛みを感じた。焼けるような痛みである。
声が出ない。息ができない。目の前には寝ていたはずの郁子の姿が見える。
すぐに手をあごに当てる。
――この感覚は――
つるつるの顎は、以前に髭を抜いていた時の懐かしさを思い出させた。しかし、それは抜いた時の感覚ではなく、剃った時の感覚だった。
「郁子、君が剃ったのか?」
「ええ、剃ってやったわ。私のおじいさんは、髭を剃ったためにあなたのおじいさんに殺されたの。だから、これは復讐なの」
「どうして今になって?」
苦しさが押し寄せてきて、それだけいうのがやっとだったが、
「分からない。どうしてなのか。でも、あなたを殺すことが私の使命だと、夢の中で告げられて……」
そこまで言うと、郁子の手に、入っていたはずの力が次第に抜けていく。これ幸いに手で郁子を払いのけると、はあはあと息を整え、冷静になっていく。
郁子は崩れ落ちたように下を向き、肩を震わせているが、今起こったことが信じられない表情で顔を上げた。
「ごめんなさい」
声にならない声を発して謝っているが、八代はそれを抱き寄せて、それ以上何も言わせようとしなかった。
「いいんだ。何も言わなくても……」
作品名:短編集49(過去作品) 作家名:森本晃次