アレルギーと依存症と抗体と
そのうちに、彼の気持ちに近づいてはいけないという思いが浮かんできた。あすなも、どうしても彼氏がほしいという意識もない。もし、彼氏がほしいと思うようになれば、きっと上杉も、自分を一人の女として見てくれると思った。それだけ今のあすなには、女性としてのオーラが足りないのではないかと思っていた。やはり女性としてのオーラを発散させるには、自分から異性への気持ちを高ぶらせて、フェロモンを発生させなければならないと思っている。あすなには、
――自分は、そんなフェロモンを発生させることができる女なんだ――
という意識があった。
だから焦りもなかったし、上杉に恋愛感情を抱かなくとも、友達以上恋人未満でやっていけると確信していたのだ。
――気持ちが変わったら、その時はその時――
と思っていたが、気持ちが変わった時のことを考えていなかったわけではなかった。
実際に気持ちが変わることは大学時代にはなかった。卒業した時も、
――昭雄さんには、恋愛感情を抱くことってないんだろうな――
と思っていたくらいだ。
それにしても、あすなに対して自分のことをどう思っているのか聞いた時、上杉の気持ちがかなり高ぶっていたことを知っている人は本人だけだろう。しかも、そのことを口にしたが最後、自分の中で勝手に気持ちが冷めていったのだ。彼のような男性が男として珍しいのかどうか、あすなには分からなかった。ただ、上杉本人は、
――珍しい人種に入るんだろうな――
と感じていた。
少数派ではありながら、どれほどの少なさなのか、想像もつかなかった。
あすなは、子供の頃から、
「余計なことは言わないようにしなさい」
と言われていた。
母親から厳しく躾けられたというよりも、母親のいうことは絶対で、従わなければ何をされるか分からないところがあった。さすがに虐待とまではいかなかったが、家で一番力があったのが母だったのだ。
父も母には逆らえない。そんな状態なので、子供が逆らうなど、できるはずもなかった。
「まわりに余計なことを言うと、自分の評価が落ちてしまうわよ。そうなったら、誰も助けてくれない。まずは第一印象で、相手との優劣をハッキリさせるくらいの方がいいの」
母親は、あすなと同じ一人っ子だった。母親が育った環境は、あすなの両親、つまり自分たちとは立場がまったく逆で、父親が亭主関白だった。そのため、母親がどれほど恥辱に塗れた人生を歩んできたのか、子供の目から見ても、それは明らかだった。
お母さんは、自分の母親しか見ていなかった。どんなに威厳があっても、父親はただの、「井の中の蛙」
でしかないのだ。
お母さんは物心ついた頃から、ずっと父親の威厳には変わりはなかった。お母さんはそんな両親を見て、
「自分の子供にだけは、自分と同じ思いをさせたくない」
と思った。
ただ、お母さんは自分が結婚する時には、夫婦間での優劣は外せないと思っていた。そのためには、自分に従順な男を探すところから始めた。大人しめで、あまり自分の意見を相手に押し付けない、むしろ自分の意見をお母さんに合わせてしまうようなそんな男性を探した。
父親が、そんな理想の男性に限りなく近かったのだろう。今でも父親は、母親の意見に合わせている。
しかし、あすなはある時気が付いた。
――お父さんは、お母さんの意見に従順なのではなく、お母さんの意見を取り入れるふりをして、うまく自分の考えに同調させていることがあるんだ――
と感じた。
大っぴらにお母さんの考えと変わってしまうようなことであれば無理があるが、お母さんにいかに悟られないようにお父さんの意見を組み込むかという一番難しいことをお父さんはやってのけていた。
そのことを悟ったのは、高校時代だっただろうか。それまでの父親のイメージが一変した。
お父さんは、そのことを誰にも悟られないようにした。母親に気づかれないようにするには、まわりにも気づかれてはいけない。父親は他の人が考えている以上に、母親は勘が鋭いところがあることを知っていた。
母親の勘が鋭いという意見は、あすなも同じだった。
「お母さんには、隠し事は難しいな」
と思っていたからだ。
「お父さんも、まわりに気づかれないようにしている。でも、それは私の思いとは少し違っているようだ」
お父さんの考えはもっと深いところにあった。
家族全員のために相手に気持ちを悟られないようにしているという意味で、
――まわりに気を遣っている――
と言えるのではないだろうか?
ただ、あすなはそんな父親を見ていて、人に気を遣うということが嫌いになった。
父親が嫌いだというわけではない。お父さんは子供の頃のイメージから比べて、格段に好きになっていた。お父さんがしている気の遣い方は、他の人がしている気の遣い方とは別格だった。だから、あすなは他の人がする気の遣い方が皆薄っぺらいものに見えて、中には偽善が混じっているように思えて、溜まらなく嫌に感じられることもあった。
高校時代から、あすなは秘密主義になっていた。
気持ちの中ではお父さんを敬愛し、お母さんを軽視するところがあったのに、表に出すわけにはいかない。
「余計なことは言わないようにしなさい」
という子供の頃からは母親に言われていたことが皮肉にしか聞こえない。
だが、あすなの頭の中には、この言葉がこびりついて離れなかった。上杉と知り合ってからも彼のことを意識しなかったのは、頭の中にこの言葉があったからだ。
――もし、誰かを好きになったとしても、自分からは告白してはいけないんだ――
その思いは、自分が告白してしまうと、最終的に破局を迎えた時、自分から告白したという事実を思い出した時、破局の原因が自分にあるわけではなくとも、自分の責任だと思ってしまいそうで、それが怖かったからだ。
少なくとも相手に告白させることで、自分のリスクを少なくしようという気持ちが、意識の奥にいつもあったのだ。
さらにあすなが秘密主義になってしまったのは、両親を表面から見る場合と、心の目で見る場合とで正反対の意識があったからだ。
――私って二重人格なのかしら?
と感じたことも、秘密主義となる一つのきっかけになったのではないだろうか。
秘密主義というのは、反抗期にはよくあることかも知れないが、成人してから秘密主義を取るという人は、まわりの環境以外にも、何かきっかけになることがあったりする。あすなの場合もきっかけは確かにあった。それまでほとんど喧嘩したことのなかった上杉と、喧嘩になった時のことだった。
喧嘩の理由というのは、えてして他愛もないことだ。二人の場合も何が原因だったのか思い出せないほど、最初は些細なもののはずだった。
しかし、今まで喧嘩したことのない二人というのは、どこで矛を収めるかということを知らない。いわゆる
「不器用」
なのだ。
特にあすなの場合は、普段から表面上と心の目で見た相手が正反対に見えるということを自覚しているところがあるので、いざ喧嘩となると、相手のどちらを信じていいのか分からなくなってしまう。
それは自分の気持ちにも言えることだった。
作品名:アレルギーと依存症と抗体と 作家名:森本晃次