愛シテル
出会い編6 〜April りく也31才 ユアン32才〜
りく也とユアン・グリフィスは、緊急車両の進入口脇に立っていた。
西の空にオレンジ色の雲を残して陽は沈んで行った。摩天楼のシルエットが美しい日没は、ニューヨークの自慢の一つだが、マンハッタンに在るマクレインからは、残念ながら見ることは出来ない。従ってりく也はそれを堪能する為に、ユアンと佇んでいたわけではなかった。
この場所を選んだのはE.R.から死角になっているからだ。ユアン・グリフィスがりく也に会いに来たと知ると、手の開いたスタッフ達の好奇な目が受付に集中した。見世物になるのは真っ平御免のりく也は、みんなの前で平静に挨拶をし、さっさとその場を離れたのである。それに ここなら表通りがすぐだから、一言言ってやってユアンを追い返せる。
「いい加減に、花を送ってくるのはやめろ」
りく也の開口一番に言った。それに対してユアンは、
「好きな相手には基本だろう?」
と笑顔付きで答えた。
「迷惑だ」
「花は嫌いだった? じゃあ、次からは違うものにするよ」
「だから、そう言うことじゃないだろ。だいたい、好きな相手って何だ? おまえとは一回しか会ってないぞ」
ズボンのポケットからタバコを取り出す。ラウンジを出る際に突っ込んで来たので、潰れて曲がっていた。少し形を修正して、りく也は口にくわえた。ライターを忘れたので火は点けられない。それを承知で咥えるのは、気持ちが落ち着くからである。もともと激情型のりく也にとって、タバコは感情の抑止力として必須アイテムだった。
「回数なんて関係ないよ。恋に落ちる時は、一瞬でだって落ちるものさ。それに僕は恋がしたかった。そうしたら、目の前に君が現れたんだ。運命的にね」
ユアンがそう言うのを呆れた表情で見やり、咥えたたばこを手に戻す。
「とにかく花もプレゼントもお断りだからな。送ってきても、俺は受け取らない。じゃ、これで」
用は済んだ。りく也は病棟に戻ろうと足を踏み出す。
「あの時、君はとても切ない目をしていた」
呼び止めるように、ユアンが言った。
「何だと?」
相手の思惑通りに振り返ってしまった自分に、りく也は胸の内で舌打ちした。
ユアンは真顔になっていた。
「ドアから二人を見ていた時だよ。とても切なくて、僕は声をかけずにいられなかった」
搬入口から、さく也と加納悦嗣が話している姿を見ていた時のことを、りく也は思い出した。自分の知らない笑顔の兄――「まったくムカツクね」と複雑な気持ちのりく也の胸中を、代弁するかのような言葉が背後から聞こえたことも。
「俺はそんな顔した覚えはない」
「大事なものを取られたって顔をしていたよ?」
頬が一瞬、熱くなったようにりく也は感じた。
「その気持ちはよくわかるから、間違っていないと思うけど?」
「気持ち?」
「サクヤを他の人間に取られるって言う気持ちさ」
ユアン・グリフィスがパートナーにするために、兄のさく也を追いかけまわしていたことは知っている。ヴァイオリニストとしてもあったが、恋人として求めていたのだ。当のさく也にはまったくその気はなく、また音楽性が違うこともあって――これは曽和英介の言葉だ。りく也は音楽に対して無知に近かったから――、ついに「YES」と言わなかった。
そんなヤツの気持ちと一緒だと言うのか?
――他人のおまえに、何がわかるって言うんだ
恋愛感情と一緒にされてたまるものか。
「それがどうした。俺は筋金入りのブラザー・コンプレックスだからな。そんな顔してもおかしくないさ」
だから開き直ってやる。ムキになって反論して、相手を喜ばせることはない。にっこりといつものように外面宜しい笑顔を浮かべて、りく也は答えた。
「君はチャーミングだね。色んな表情を持っていて、サクヤとはまた違った魅力がある。ますます好きになりそうだよ」
抱きしめかねない勢いで、長い両手を広げた。りく也は身をかわす。
「生憎、女には不自由してないんだ。男を抱きたいとも思わないしな」
「僕は抱く方が得意だから、心配ないよ。きっと君も満足するさ、男同士のセックスも」
シュッ…と空気のなる音が聞こえた。りく也の右ストレートがユアンの左頬に向かう音だった。あわててかわしたユアンは、無様にアスファルトの上に尻餅をついた。そうして避けなくても、りく也の手は頬には到達しないで止まるはずだった。
「誰が本気で殴るか。次、また戯けたこと言って見ろ、今度は頬骨、折ってやる」
白衣の胸ポケットでベルが鳴った。E.R.からの呼び出しだ。
尻餅をついたままのユアンに背を向けて、大またで踏み出した。
「リクヤ、僕と恋愛しようーっ! 僕はあきらめないからー。追いかけるのは得意なんだー」
背後で叫ぶ彼に向かって、りく也は中指を立てた右手を走りながら思い切り振った。それに対して『黄金のグリフォン』が極上の笑みを贈ったなど、知る由もない。
「あ、何だぁ、一人で帰ってきたの?」
息を切らして戻ったりく也を、ナース達の落胆を含んだ声が迎える。彼女達に舌を出して答えにした。
外で話したのは正解だった。息抜き代わりに、面白がられることは目に見えている。今だって、本当の呼び出しかどうか怪しいものだ。外来はスムーズに流れているし、緊急搬送の連絡が入っている様子はない。戻って来たりく也を見る目は、ナースに限らず、興味津々だった。
「呼び出されたんだけど?」
受付のスミスは「知らない」と首を振った。
「みんな退屈してるのよ。今日は珍しく暇だから。ちなみにベルを鳴らしたのはケーシー」
カルテを戻しに来ていたナンシーは、患者を診ているケーシーを指差した。視線に気づいて彼は、親指を立ててりく也にウィンクして見せた。
「忙しけりゃ文句を言い、暇ならすぐに退屈する。ここはやっかいな所だなぁ」
りく也は苦笑した。
「そ。あきない所よ。だから、ぜひともレジデンシィはここにしてね」
「今から営業ですか? まだ一年もあるんですけど?」
「優秀な学生には早いとこ唾つけとかなきゃ。精神科なんかに盗られたら、大損失だもの」
ナースが持って来たカルテに投薬の指示を書き付け、ナンシーは時計を見た。
「今日は時間通りに帰れそうだわ。たまにはこんな日もなけりゃね」
彼女が首から聴診器を外して首を回したところで、緊急電話が鳴った。スピーカーから乗用車同士の衝突事故による怪我人の受け入れ要請が入る。人数は五人で、うち二人はかなりの重傷らしい。五分後に到着予定だと告げて、電話は切れた。
「あと十分でオフなのにぃ」
「退屈だなんて言うからさ」
天を仰ぐナンシーに、スミスが皮肉った。外した聴診器を首にかけ直し、彼女は搬入口に向かった。手の空いているドクターも、次々と搬入口に走る。五分なんてすぐだ。りく也も後に続く。
いつもの風景が戻って来た。不思議な高揚をりく也は覚えた。案外、自分はここに合っているのかも知れない。はっきりとした現実感が、余計な思考を止めてくれる。兄の代わりに自分を必要としてくれる――心の奥底に出来た小さな隙間を、忘れさせてくれる。
こう言う日常に埋没するのもいいかも…と、近づいて来るサイレンの音を聞きながら、りく也は思った。
(出会い編 了)