愛シテル
出会い編5 〜April りく也31才 ユアン32才〜
四月の第四週、ひよこ達のE.R.ローテーションも最終週に入った。前半はお荷物だった医学生も今では立派な戦力となり、満遍なく重宝に使われている。
彼らが使えるようになったとは言え、E.R.の忙しさが緩和されるわけではない。患者を捌けるようになった分、受け入れる人数が増えるわけだから、相変わらずオフも休憩もままならない現状は、一ヶ月前と変わりはなかった。
「それでも、気分的に余裕が出来るってもんだわ。あーあ、やっと仕事を覚えてくれたと思ったら、次に回って行くんだから、まったく割に合わない」
スタッフ・ドクターのナンシー・コーンウェルが嘆く。
「また何ヶ月後かに回って来るじゃないか」
慰めるのはケイシーである。ナンシーは肩を竦めて「リセットされてるわ」と、記入しきれないほど名前が書き連ねてあるクランケ・ボードを見ながら言った。
そんな忙しいE.R.スタッフの最近の関心事と言えば、受付とドクター・ラウンジに飾られているバラの花についてだった。
バラは先週から三日と空けずに送られてくる。ビロードのような手触りの深紅の花は、素人目にも高価なものに思えた。それがニューヨーク一高級な花屋から、国際的なピアニストのユアン・グリフィスの名前で、医学生のリクヤ・ナカハラ宛てに送られてくるのだから、否が応にも関心を引くと言うものだ。
「また来た。すごいわねぇ。ざっと見ても五十本よ」
「七百$は下らないわね」
「花言葉は『熱愛』よ。どう、リック? 熱愛されてる気分は?」
受付でナース達が新たに来た花束を前に囀(さえず)っている。通りかかったりく也は感想を聞かれると、、
「光栄だね、何たって名高い『黄金のグリフィン』からだから。ああ、良かったらナース・ルームに持って行ってくれていいよ」
と気にしない風に笑顔で答えた。しかしその腹の内は、煮えくり返っている。だから踏み出す足に力が入っていた。
最初に花束が届けられた時、休む間もなくこき使われているサクヤ・ナカハラの弟を、励ます意味かとりく也は思っていた。話題には上ったが、花束が病院に送られてくることは珍しくなかったから、その場だけで済んだ話の筈だったのだ。ところが二日後にまた花束が届けられた。そしてその三日後にも。一週間に三回も届けられると、さすがに周りも黙ってはいない。ユアン・グリフィスはゲイであることを隠していなかった。更なる憶測の嵐が吹き荒れたのは言うまでもない。
りく也とてただもらい続けていたわけではなかった。まずウィーンのさく也に電話をし、ユアンの連絡先を聞いた。それから彼のニューヨークのマンションに電話を入れたが留守で、執事と名乗った男が出て演奏旅行に出ていると答えた。本人はヨーロッパだと言うのに、それからも花は届き続けた。配達人にもう持って来るなと言うと、
「ご本人に直接言って下さい」
の一点張りで、りく也が受け取りを拒否するや、他の人間にサインを貰ってバラを置いていくようになった。
ドクター・ラウンジは、だから、芳香で満たされている。疲れた心の癒しとはなっているが、りく也にはいい迷惑だ。花のおかげでりく也が話のネタにされ、スタッフを癒しているのだから。
「これもあとちょっとだ。来週はここにいないんだから」
花瓶がわりのコニカル・ビーカーに生けられたバラに独りごちる。
「リックは次、どこなんだ?」
テイク・アウトのハンバーガーを頬張りながら、ロバートが尋ねた。
「外科」
「僕は小児ICUだ。ここより楽かな」
「子供は恐いわよ。小さいから些細な量の違いが命取りなんだもの」
カーラは前回が小児ICUのローテーションだったとかで、その大変さをロバートに語って聞かせた。
医学生達の気持ちはすでに次のローテーションに移っていた。やっと使い物になった頃に学生は去って行くのだから、teaching hospitalの宿命とは言え、スタッフの苦労が忍ばれる。
「君達、出来ればレジデンシィはここを希望して欲しいもんだね。E.R.は面白いぞ。緊張感みなぎる現場だから、退屈しないこと請け合いだ」
学生達の会話に、カインが口を挟んだ。二年間の臨床研修で揉まれてそこそこ成長したレジデントは、万年人手不足の科にとって貴重な戦力になる。だから医学生の頃から目星をつけるのだが、たいていの場合、E.R.は敬遠された。
今回の学生達も御多分には漏れず、カインの言葉にアルカイックな笑顔で応えた。
「僕には向きませんよ。判断力も悪いし。この緊張感が続くと、胃に穴が開きそう」
ロバートが最初に意思表示した。カーラもそれに同意して頷く。
「その緊張感がいいんじゃないか、まったく」
「ジェフリーはE.Rを希望してますよ」
落胆するカインに、カーラは慰めるように言った。ジェフリーの評価はここに来て上がっていた。物覚えが良く、応用を利かせる能力に長け、遅刻は相変わらずだったが、その分居残りも厭わないので、いつの間にかスタッフ・ドクターの『人気』を、りく也と二分するほどになっていた。
「本当かい? これでリックが来てくれたら、取りあえずはここ数年は安泰だ。リックはもちろん来てくれるんだろう?」
「希望は精神科なんです」
当然、E.R.をレジデンシィ・プログラムで選ぶと思われたりく也の口から意外な専攻科が飛び出て、一同、「えーっ!?」と声を上げた。
「なんでまた…、その腕が泣くぞ」
カインは身を乗り出す。 精神科医は需要が高い割に評価が低い。メディカル・スクールと臨床研修で学んだ技術的処置が必要ないからだ。派手さを好むアメリカ人気質に合わないこともある。E.R.は多忙を、精神科医はインカム(基礎所得)と評価の低さを理由に、医学生が避ける診療科だった。
それよりも何よりも、りく也の判断力の良さと臨機応変な対応は、E.R.向きだと誰もが思っていたから、驚きの声は無理からぬものと言えた。
「俺は最初から精神科医になるつもりで、医学部入ったんですもん」
『いつかきっと笑える日が来る。君がこんなに一生懸命なんだから。焦らないで。君の焦る気持ちは彼に伝染するよ。疲れたら、いつでも私の所にくればいいから。いいね?』
そう言ったのは、ボストンで兄の主治医だった小児精神科医のドクター・グレイブだ。兄の感情を取り戻したくて、子供なりに焦っていたりく也を支えてくれた。第一は兄の為、第二は彼のカウンセリングに影響を受けて、精神科医の道を選んだ。
「でもまあ、まだ一年あるから気が変わるかも知れませんけどね」
兄にはもう、精神科医など必要ない。加納悦嗣が治しつつある。
「それはぜひとも期待したいもんだ。あ、でもここのE.R.を選んでくれよ」
期待を込めてカインが言うと、「考えておきます」とりく也は笑った。
「リック、お客さまよ」
ラウンジのドアが開いて、ナースのエミリーが顔をのぞかせた。意味深な笑みが口元に浮かんでいる。
「誰?」
「バラの騎士」