愛シテル
本編1 〜January りく也34才 ユアン35才〜
「ああ、リック、セカンドに外来の患者」
投薬指示をカルテに書き付けていたりく也に、ジェフリーから声がかかった。
「少し休憩させろよ」
カルテをナースに渡して、彼の隣に並んだ。
昨日、今日と、相変わらずマクレインのE.R.は忙しい。レジデンシィ・プログラム一年目のリクヤ・ナカハラとジェフリー・ジョーンズの連続勤務時間は、前者二十五時間、後者二十時間になっていた。シフト上はとっくにオフなっている。しかしレジデントは医学生以上にこき使われるのがどこの診療科でもお約束になっているから、どこよりも忙しいE.R.所属――それもニューヨーク――の二人がシフト通りなどと言う事はありえず、ほぼどの時間でもその姿を見ることが出来た。
「だって、Dr.ナカハラが空くまで待つって言うから。もう五時間前から待ってるぞ」
ニヤリとジェフリーが笑う。それを見てりく也は誰が来ているか悟った。
「ミーシャ、今、空いてるか?」
受け付けでクランケ・ボードを見ている医学生ミハエル・ソコロフに、りく也は声をかける。彼が次の指示を待っているところだと答えると、自分の後について来るよう言った。
「君に診てもらいたがってんのに、学生を連れていくのか?」
「学生は実習の為に来てるんだろ?」
ジェフリーは肩を竦めて、自分を呼ぶ方に別れて行った。
ユアン・グリフィスは右手を差し出した。ミハエルがチラリと後ろに立つりく也を見る。りく也は顎でその手を診るように指示した。ミハエルは仕方なく、大きな彼の手を取った。
医学生の手の中で患者の手は自ら傾いた。それから左手の人差し指で右手中指の、第一、第二関節の間を指す。うっすらと赤い線が側面に見えた。それも目を凝らさないと見逃しそうな、五ミリほどの『線』である。
またもミハエルが振り返るので、
「Dr.ソコロフ」
とりく也は更に診察を促した。
「えと、どうされましたか?」
恐る恐るミハエルは患者の顔を見る。ユアン・グリフィスは目の前ではなく、その後ろのりく也に向かって答えた。
「雑誌の端で切ってしまって、少し痛むんだ」
何が痛むだ、かすり傷じゃないか…と言ってやりたいのを、りく也はのど元で抑えた。しつこいくらいにミハエルが自分を見る。
アメリカを代表する国際的ピアニストのユアン・グリフィスが、リクヤ・ナカハラにまだ医学生の頃からご執心だと言う事は、E.R.のみならずマクレイン中が知っている。臨床ローテーションで各診療科を回るたび花束や菓子が贈りつけられ、医師試験に合格した時は大きなケーキが届けられた。医科卒業の時にはあたりまえのように家族席にその姿があって、請われて卒業生の為に演奏を披露したことは、語り種(かたりぐさ)になっている。
ユアン・グリフィスが外来で来たなら、必ずDr.ナカハラに受け持たせる――と言うことは、ローテーションで来る医学生までが了解していたが、りく也にとってまったく迷惑な話に他ならない。
「診断は?」
いくらミハエルが助けて欲しいオーラを出しても、りく也は意に介さない。
「…右第三指指掌側面に軽度の裂傷です」
裂傷と呼ぶにはあまりにも微細な切り傷である。りく也の位置からは指紋と判別不能だ。
「で、治療はどうする?」
「消毒してテープを」
「よく出来ました。しかしこの程度の傷で、貴重な病院の備品を使うこともない」
「ひどいな、大事なピアニストの指だぞ」
レジデントと医学生に会話に、患者が割って入った。
「そんな傷、舐めときゃ治る」
「じゃ、君が舐めてくれ」
ミハエルの手を外して、ユアンはりく也に向けて手を差し出した。まるで手の甲にキスをねだる貴婦人のように。医学生は他人のやり取りながら、赤面して俯いた。
りく也は治療カートを引き寄せる。差し出されたユアンの手首をミハエルの肩先から引っ掴むと、消毒綿を乱暴に傷口らしき所に押し付けて清浄し、包帯で指をグルグル巻きに固定した。
「もっと優しくしてくれてもいいだろう、リクヤ?」
ムッとした目でユアンが抗議する。
「そんな傷くらいで、いちいちここに来てんじゃねー。みんな暇じゃないんだぞ」
「だから大人しく待ってたじゃないか」
「おまえの占領してるこのベットが、本当に必要な患者だっているんだ」
「さっきまで、ちゃんと外来で待っていた、五時間も! 席も他の人間に譲って立っていたさ。君がいつも言うように、文句も言わずに」
「だったら誰かにさっさと診てもらえよ」
「君は僕の主治医じゃないかっ!!」
「俺がいつ、おまえの主治医になったんだよっ?!」
会話ヒートアップして行くのはいつものことだ。ナース達は慣れたもので、気にせず仕事をこなして行く。しかし医学生三年のミハエルは、今回が初めてのE.R.ローテーションで、この状況に遭遇したことがなく、二人の間でオロオロするばかりだった。
「とにかくコンドミニアムに帰れ。執事がいるだろ、そいつに優しく舐めてもらえ」
「僕は君に舐めてもらたいのっ!」
「おまえなっ…」
声が大きくなったところで抑えた。どこにいるのか、思い出したのだ。部屋のあちこちから笑いが聞こえた。
軽い咳払いを一つすると、ベッドのポケットに入ったカルテを取った。それに薬品名をもっともらしく記入すると、近くにいたナースに手渡す。彼女も笑っていたが、りく也と目が合うと唇を結んだ。
「アスコルビン酸、出しといてやる。それを薬局でもらって、さっさと帰れ」
「アスコルビン酸って?」
「ソコロフ君、説明して差し上げなさい」
突然、話を振られたミハエルはすぐには言葉が出なかったが、不機嫌なレジデントが指導医の目に戻っているので、
「ビタミンCです。ビタミンCは皮膚や腱、骨や血管にある繊維成分の生成にかかわっています」
と、慌てて教科書通りの説明を吐き出した。その答えがあまりレジデントの意思に沿っていないことを察したらしく、しどろもどろに続ける。
「つまり、そのう…、スキン・サイクルを促進させて、そのう…」
しかし変にプレッシャーがかかり、上手く続かなかった。
「新しい皮がちゃっちゃっと出来るように、助ける効果があるってことだ。おまえのは皮が削れた程度、傷じゃない。わかったかっ」
りく也はミハエルに助け舟を出すと、ドアに向かった。
「君は本当に怒りっぽいな。どうしてそんな君が愛しいのか、自分で自分の心の広さに感心するよ」
後ろでまだ何かユアンが叫んでいたが、彼のたわごとに聞く耳を持ち合わせていないりく也は、「言ってろ」と吐き捨ててドアを押し開けた。
午後十一時四十五分、その日最後と思われる担当患者のカルテをボックスに放り込み、りく也はドクター・ラウンジに戻った。
オフは翌朝の六時で、それまでを入れると連続勤務は三十六時間になる。年間四万ドル弱の報酬では、ほとんどボランティアと言っていい仕事だ、レジデントは。ようやく慣れたとは言え、初志貫徹して精神科を取れば良かったと、時折思うりく也であった。
「お疲れ」
同じく連続勤務時間更新確実のジェフリーが、ソファに寝そべったまま手を振った。りく也は冷蔵庫からミネラル・ウォーターを取り出し、向かいの席に座る。