小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

愛シテル

INDEX|7ページ/56ページ|

次のページ前のページ
 

出会い編4 〜April りく也31才 ユアン32才〜






 昨日の喧騒が嘘のように、日付の変わったE.R.は静かだった。夕方に少しバタバタとしたが、昼間とは違いスムーズに対処出来る程度で、忙しさの元の将棋倒しの重傷者達は、動かせない者以外、別の病棟に移されて行った。ここ数日間では一番静かな夜を迎えたのである。
 りく也はドクター・ラウンジで医学書を開いていた。夕方の一時の忙しさの為にまたも帰りそびれてしまったのだ。それで提出期限が迫るレポートの下書きをしながら、次の勤務時間を待つことにしたが、本は開いているだけで読んでいるとは言えない状態だった。頭の中は忙しくなる少し前の、搬入口の外でのことに占められていたからだ。
 初めて会った兄の恋人――加納悦嗣は『感じのいいヤツ』だった。恋人と言うよりは良い友人と言った風で、今までの恋人達のようにさく也が可愛くてしかたがない的なものは感じられなかった。兄に初めて出来た友達。それがりく也の第一印象である。もう一人のユアン・グリフィスの方がよほど恋人然として見えた。彼が持っていたドリンクの一つはさく也の為のもので、甘い笑顔付きで手渡した。こちらは以前の恋人達と大差ない。
「あ、何だ、帰ってなかったのか?」
 ケイシーが入って来た。手にはどっさりとカルテを持っている。それをりく也の座る大きなテーブルの上に放り出し、コーヒー・メーカーに歩み寄った。りく也にも「飲むか?」と確認し、二つの紙コップにコーヒーを注いだ。
「帰りそびれたんです」
 カップを受け取って、答える。ケイシーは向かいに座った。意識は今に戻ってきた。
「兄貴が来たんだってな?」
 昨日から何度目かの同じ質問である。りく也は苦笑した。家族が会いに来ることは別に珍しいことではない。ケイシーの二人の子供は父親の職場を見に来たし、ロバートの元ミス・カルフォル二アの――今は想像出来ないくらいに太っている――母親が着替えを持ってきたこともある。他にも友達や配偶者、異性・同性の恋人などが訪れたことがあったが、りく也の時ほど話題にはならなかった。
「たかが兄貴が来たくらい、珍しいことじゃないと思うけどなぁ」
 皮肉めいた口調は隠さない。ケイシーがニヤリと笑った。
「普通の兄貴だったらな。やけに目立った三人組だったって聞いたぞ。ヴァイオリニストなんだって? 今年のちゃいころすきー、最有力なんだってな? すごいな」
「それを言うならチャイコフスキーですよ、ケイシー」
 どう見てもR&Bしか聴いていなさそうなケイシーの口から、チャイコフスキーの名が出ることには相当に違和感があった。「すごい」がどれくらい「すごい」のか、わかって言っているとも思えなかった。大方、誰かからの入れ知恵に違いない。彼は頭を掻いて、持ってきたカルテを開いた。
「クラシック好きの部長なんかは、あの派手なブロンドに大騒ぎだったけどな、他はみんな、おまえの行動に驚いてたぞ。本当に兄貴なのか? あの飛びつき方は違うだろ?」
「兄貴だってば、正真正銘、十五分違いの」
 からかい口調のケイシーに、乾いた笑いで答えた。
「ずい分会ってなかったから、ちょっとはしゃいだだけですったら。ご期待に添えなくて申し訳ありませんがね」
「それじゃ、重症なブラコンだな」
 違う声が割り込んだ。声の主はジェフリーで、彼はまっすぐロッカーに向かった。やはり予定よりずい分オーバーしてのオフだった。
「ICUのモンローをすっぽかしたろ?」
「ちゃんと断った。それに兄貴の為にキャンセルしたんじゃないぞ。夕方はそれなりに忙しかったじゃないか?」
「どーだかなー。いつもと雰囲気違ったもんなー。mouth to mouthだし。噂、変わったぜ。リック・ナカハラはブラコンでゲイ。満たされない性欲を、女で処理してるって」
 りく也はレポート・パッドを一頁千切って丸め、ジェフリーに投げつけた。
「みんな忙しくて、煮詰まってんじゃないのか? だいたい後半はおまえの創作だろーが」
 後頭部に軽い音を立てて当たり、床に落ちた紙屑をジェフリーは拾い上げ、今度はりく也に向けて投げ返した。しばらく紙屑の応酬が続いたが、ケイシーの嗜める声がかかったので、りく也の手からごみ箱にパスされて終わった。ジェフリーは腕時計に目をやる。
「遊んでる場合じゃない」
 そう言うと手を振って足早に帰って行った。それでなくても大幅にオフを削られている。さっさと帰らないと足止めを掛けられかねないからだ。医学生は何しろ、使い走りだから。
 彼が出て行くとりく也を肴にした話も終わり、ケイシーは山と積まれたカルテの整理に取り掛かった。が、すぐにナースが呼びに来て中断せざるを得ず、頭を掻きながら出て行った。
そうしてまた、りく也一人になった。

『重症なブラコンだな』

 そんなことはジェフリーに指摘されるまでもなく、りく也はとっくに自覚している。
 八才の時にりく也は、跡取を必要とした遺伝子上の父である男に引き取られた。不倫の末に生まれた彼はその妻と子供達に存在を認められず、大財閥の後継者として厳しく教育される。優しかった実母と仲の良い兄が恋しくてたまらなかった。しかし瞼の母が手元に残った兄を虐待し続け、ついにはその首に手をかけて殺そうとしたと知った時、そして、ショックで感情を失くして空ろな瞳の兄を見た時、りく也は――子供は大人に夢を見ることは止めた。この世で信じられるものは、同じ日に同じ子宮から生み出され、辛い境遇の中で育ったさく也だけ。後はすべて敵。りく也はそう思って生きて来た。
 医学書に目を落とす。専門用語を解するほど大人になったが、りく也は精神的にあの頃と少しも変わっていない。人好きのする人気者のその実は、人間不信のまま育った、どうしようもない子供なのだ。だから、さく也の幸せを素直に喜べない。あの笑顔を向ける最初の相手が、自分でなかったことがこんなに悔しい。
「ざまぁねーな」
 さく也の変わりようを見るのは嬉しい。加納悦嗣がいいヤツで良かったと思うことも嘘じゃない。
 それでも人間の心は複雑で、ちりちりとした痛みがりく也を苛んだ。



作品名:愛シテル 作家名:紙森けい