愛シテル
りく也は辺りを見回す。クレームをつける外来患者に、家族、ナースにドクター、清掃員、警備員。
「どこ?!」
「外来待合室の方には行ったけど、二時間も前だか…、って、おい、リック?」
りく也がカルテを持ったまま、言われた待合室の方へ走り出そうとした時、その方向から歩いて来る目立つ二人組が目に入った。
背の高い金髪の白人と、並んで歩く東洋人。その東洋人の顔を見るなり、りく也は叫んだ。
「さく也!」
呼び声に東洋人は気づいてりく也を確認した。口元に笑みが浮かぶ。
りく也の足が速くなった。自分へと見る見る近づいてくる彼に東洋人が、
「り…」
何か言おうとするより早く、りく也の腕が伸びて抱きしめた。まるで映画かテレビ・ドラマのワン・シーンのように。
その様子を受付からジェフリーとスミスが、あっけにとられて見ていた。
兄の中原さく也とは三年と半年ぶりだった。自分の足が地に着くまで、連絡しないと決めたからだ。
「りく、痛い」
りく也の耳元でさく也が呟く。腕の力を緩めて、久しぶりの兄の顔を見た。懐かしい右目の下の小さなほくろを、彼であることを確かめるように指でなぞった。りく也を見つめる彼の目が、フッと笑んだ。
「どうしたんだ?」
さく也を離して尋ねた。
「ここでローテーションをしてるって、メールをもらったから、顔を見にきた」
さく也はヴァイオリニストで、ウィーンのオーケストラに所属しているから、簡単にアメリカのニューヨークくんだりまでは来れない。それを感じさせない口ぶりで、彼は答えた。抑揚のない物言いは以前と同じだが、目元口元にやわらかな印象を受ける。
「こいつ、誰?」
りく也はさく也の隣に立つ背の高い金髪を見やる。彼はにっこりと笑って、さく也の肩に手を置いて抱き寄せた。りく也は持っていたカルテでその手を叩く。
長身で金髪、ハリウッド・スターばりの容姿。直接会ったことはないが、知らないわけでもなかった。
「なるほど、『黄金のグリフィン』か。さく也のストーカーの」
「ストーカー?!」
英語で言ったりく也の言葉に、彼が大仰に反応したから、間違いなくユアン・グリフィス本人だろう。アメリカ人のピアニストがさく也を追い掛け回していると、以前、さく也の友人の曽和英介から聞いていた。兄と違ってクラシックにはまったく縁がないりく也は、ユアン・グリフィスが半世紀に一人の逸材であろうと、関係なかった。
「ストーカーだろ? さく也のことを追いかけまわしてんだから」
「サ、サクヤ、君の弟は失礼なヤツだなっ!」
白い首筋を真っ赤にしてユアンが怒ったが、りく也はおかまいなしで置き去りにし、さく也に目を戻した。
「元気そうだな?」
「りくも。ちゃんと医者になったんだ?」
りく也のカッコウを見て兄が言った。「まだそれ以前」とりく也が答えると微笑む。以前のさく也では考えられない頻度だ。幼児期に母親から虐待を受けた彼は、思ったことを伝えたり、感情を表現することが下手だった。年の離れた恋人達は、さく也が何か言う前に察して先回りをしてしまうから喋る必要もなかったし、才能が勝負の世界にいるために、人とのコミュニケーションはヴァイオリンがしてくれたから、大人になっても子供の頃から比べればマシと言う程度だった。ところが―――
「加納悦嗣はどうしてる? うまくやってるのか?」
加納悦嗣に恋をしたことで、彼は少しずつ確実に変わって行った。年も近く普通の社会人の加納悦嗣は、さく也が思うことを察してはくれない。態度で、言葉で示さなければ、伝わらないから。
「一緒に来てる。ユアンがプログラムにダブル・ハンドを入れたいって言うから」
「弾くのか、そいつ?」
「せっかく僕が一緒に弾こうって言っているのに、自分の指では金は取れないってYESと言わない。サクヤとだったら素直に弾くくせに。結局、今回も調律だけさ」
さく也のかわりにユアンが答えた。自分はさく也に聞いているのに、まったくうざいヤツだ…と、りく也は彼を睨みつけた。さく也は答えを取られたからと言って、気にする風ではなかった。
「ここに来ているのか?」
「外でタバコを吸ってる」
「じゃ、挨拶でもしておくか」
と言って、手にしたカルテを思い出した。縫合室で肩の縫合を待っている患者のだ。ちょうどりく也を呼ぶスタッフの声も聞こえた。
「これはすぐ終わるから」
「今日は空けてる。待ってるよ」
りく也はさく也にmouth to mouthの軽いキスを贈ると、縫合室に足を向けた。