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愛シテル

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 こんなに痛むものなのか、これは本当に狭心症の発作なのか、今までそんな兆候はなかったはずだ――さまざまな思考がジェフリーの頭の中を過ぎる。実際には痛みのひどさに、それらは形にならなかった。
 マーガレットが何かを叫びながら遠ざかる。きっと人を呼びに行ったのだろう。ひどい胸の痛みにうめきながら、ジェフリーは複数の足音を聞いたような気がした。



 マクレインでは何時間も待たされる患者を見てきた。検査が行われるまでも長ければ、結果が知らされるまでも長い。文句を言う患者をなだめるのに苦労したことをジェフリーは覚えている。逆の立場に、よもや自分がなろうとは。今まで病気らしい病気をしたことがない彼は、さんざん待たされたあげく、必要ないと思っていた検査入院までさせられる事態に及んで辟易していた。
 激しい胸部痛を覚えたのは昨日のことだった。広範囲の圧痛とそれにともなう呼吸困難、意識は何とか保ってはいられたものの、倒れこんだまま暫くは起き上がれなかった。
 リクヤがマーガレットに呼ばれて処置をしてくれたのだが、診断の結果はジェフリーが自己診断したものと同じ狭心症だった。
「典型的な狭心症の症状だ。今まで兆候はなかったのか?」
「ないよ。ここのところハードだったからな。疲れもあるんだろう。一過性のものさ、大したことはない」
 発作はすぐに治まった。狭心症の患者を医師として何人も診てきたので、自分がどの程度の病状であるかわかる。
 狭心症は基本的に、心臓の左右それぞれの冠動脈が詰まり、心臓の組織に血が一時的に行渡らない血流障害のことを言う。原因には病歴――高血圧や高脂血症、糖尿病など――によるものと、喫煙・飲酒、ストレスなどの生活環境などによるものがある。ジェフリーは後者だと思われた。最近、少々体重増加の傾向にはあったが、目くじらを立てるほどの肥満ではなかった。血圧も血糖もコレステロールも正常値だし、今回の発作を引き起こしたのは、ここ最近、忙しい日々が続いたからだろう。
「一度、ちゃんとした検査を受けろ。疲れで片付けないで」
 ジェフリーにしてみれば自分とリクヤの診断で十分だった。今まで何もなく、多忙続きによるたまたまの発作で大騒ぎするのは気恥ずかしい。
「ダメよ、パパ。リックの言う通り、検査を受けて。医者の不養生って言葉、知ってる?」
 リクヤは設備の整った病院での検査を勧め、加えてエレナがそれに同調した。それで仕方なく、ジェフリーは群立病院にまで出向いてきたと言うわけである。
「僕は元気なんだけどね?」
 検査入院の必要はないと暗に含んで、若い担当医に言ってみる。
「詳細なオーダー表がドクター・ナカハラから出ています」
 検査オーダーを覘き見ると、とても一日では済みそうもない項目数だった。
「こんな高い検査まで! 何、考えてるんだ、リックのヤツ」
「でもドクター・ジェフリー、定期検査を受けてらっしゃらないと伺いましたよ?」
「そりゃそうさ。健康なんだから、必要ない」
「そう言う患者に、医師としてどう対処なさってきたんです?」
 担当医のきり返しにジェフリーは言葉に詰まった。してやったりの表情で、担当医は次の患者へと移って行く。仕方なく、ジェフリーはベッドに深く身を沈めた。
「なんてこった」
 楽しい夏になるはずだった。リクヤを呼んで、クリニックの件はともかく、のんびりと旧交を温めるのが第一目的だったのに、ジェフリーは忙しくて時間が取れず、二週間など「あっ」と言う間に経ってしまった。その終わりがこれである。何か悪いことをしただろうかと、嘆きたくもなる。
 窓から見える空は、ジェフリーの気持ちをあざ笑うかのように、どこまでも清清しく青かった。




 ジェフリーがアシェンナレイクサイドに戻ったのは、倒れて三日後。
 検査の結果、どこにも異常はなく、胸部痛の発作もストレスや疲労から交感神経の障害に至った神経性狭心症と診断された。本人の所見通りだ。自己診断の正しさを証明され、「大騒ぎするほどのこともなかったのに」と言うジェフリーの言葉はしかし、聞き流された。
 帰宅すると、クリニックの方は閉まっていた。送ってくれたエレナの話ではリクヤが診ているとのことだったので、少し期待をしていたのだが。
「おかえり」
 リクヤは居間にいて、辺りに散らかったものを片付けている最中だった。新聞に、本に、上着、ブランケット。主にソファを中心にして散らされた物、物、物。
「リックって案外、散らかし屋さんなのよ」
とエレナが笑っていた。
 リクヤは昔からそうだ。脱いだものは脱ぎっぱなし、読んだ物は読みっぱなし。マクレインに勤務していた頃、飲んで遅くなり彼のアパートに泊めてもらったことが何度かあったが、居間は細々したものが散乱していた。それを無造作にまとめて部屋の隅に追いやり、座る場所や寝る場所を確保すると言った具合だ。彼から受ける印象には不似合いな性格だと、ジェフリーは常々、思っていた。
「クリニック、開けてくれたんだって? ありがとう」
「急患だけだ。開けていたわけじゃない」
 粗方片付け終わったリクヤは、コーヒー・メーカーのスイッチを入れる。ほどなくコポコポと音が鳴り始めた。
 どことなくリクヤの雰囲気が違うのは、気のせいだろうか? 
――戻っている?
 一年半前の彼に。
「ひどい目にあったよ。やっぱり年かな。それほどキツイと思わなかったんだけど」
 コーヒーの入ったカップを受け取り、ジェフリーは明るく笑って見せた。リクヤは応えるかのように口元に笑みを作る。笑顔は、笑顔であって笑顔ではない。何とも言えない違和感を、ジェフリーは受けた。
「とりあえず一週間ほど休もうと思っているんだ。エレナもうるさいし」
「それがいい」
「予定より遅くなったけど、夏休みを取るよ。付き合ってくれるだろう?」
「俺は帰るよ」
 リクヤはカップを置いた。
「ずい分、ゆっくり出来たし。そろそろ働かないと、勘が鈍る」
 ジェフリーはテーブルの隅に置かれたノート型パソコンを見る。
「株なら、ここでも出来るだろう? ここに来てからも毎日見ているじゃないか?」
「集中出来ないから。実際、買いそびれて億万長者のチャンスを逃したし」
「リック、前から話している件なんだけど」
 彼がここに来てから、折があれば何度も切り出した。一緒にクリニックをやってくれないかと。月平均の患者数を見れば、ジェフリー一人でも手は足りる。それはわかっている。
「その話は断ったはずだ。それに君は引退しろ」
「リック」
「狭心症を甘く見るなよ。今回は神経性のものだったけど、器質型に変わる可能性だってある。君も医者なら検査数値を見てわかるだろう?」
 ジェフリーの検査結果は確かに際立った異常は見られなかった。どの数値も正常範囲内ではある。ただ、コレステロール値も血糖値も正常高値であり要観察数値と言えた。加齢を考えると、それらが原因となる器質型狭心症が引き起こさないとも限らない。
 今回のように一度に事が重なってストレスのかかる状況も、これから先あるだろう。
「医者がいなくなる。ここを閉めるわけにはいかないよ」
作品名:愛シテル 作家名:紙森けい