愛シテル
「州か郡に頼んで、週一回の臨時クリニックを開設してもらえばいい。ネットワークを作って、急患に対応する方法だってあるはずだ」
「医者がここにいるんだぞ? 病気を持ちながら働いているドクターはいくらでもいる。たまたま一回倒れたからと言って、辞められるもんか」
ジェフリーは自分の声の調子が上がったのを感じた。落ち着かせるためにコーヒーを口に含む。
「…忠告はした。ここを続けてやっていくなら、せめて定期健診は受けろよ」
リクヤはそう言うと、立ち上がった。
「リック?」
「帰る用意をする。取れれば明日の飛行機で帰るよ」
「そんな、急過ぎるだろう?」
「予定では一昨日帰るはずだったから、急でもないさ」
「僕は一週間休みなんだぜ?」
「その一週間はゆっくり休め。何もしないで充電して、また好きなクリニックの医師に戻ればいい」
ジェフリーはリクヤの腕を掴んだ。「そして、君は?」の言葉が、喉元まで出かかって飲み込んだ。
――そして君は、あの寂しい部屋に戻るのか?
ここに来てからリクヤは、部屋を散らかしたことがなかった。他人の家に来ているのだから、当たり前のことだろう。しかし振り返ってみて思うに、マクレインの時の彼のロッカーは、そしてドクター・ラウンジは、常に整頓されていた。むしろスタッフの間では、ジェフリーの方が片付けを注意されていたくらいだった。
大昔、小児精神科のローテーションで良く似た症例を学んだことがある。家族や大事な人間と離された際の不安感が、様々な症状・行動を引き起こすと言うものだ。きれいに片付けられた独りの場所では孤独を感じ、乱雑に物を広げてそれを緩和する。そんなケースが確たる症例として存在するかどうかは、専門ではないのではっきりしないが、ないとも言えまい。
彼から兄以外の家族の話を聞いたことがなかった。
彼が散らかすのは、独りの場所ではないのか?
「何だ?」
リクヤは自分を掴むジェフリーの腕を見る。
「クリニックを手伝えとは言わない。僕の主治医になってくれないか?」
このまま帰してしまっていいのかと、もう一人の自分が囁いた。
「ほら、体調管理なんて、一人じゃ自分を甘やかしてしまうからさ」
ジェフリーは立ち上がった。なるべく自然に引き止める。
リクヤの目は、まっすぐにジェフリーを見た。
「お断りだ」
「リック!」
リクヤが手を振り払おうとするのを、ジェフリーは許さなかった。彼の眉間に皺が寄る。
「いい加減にしろよ、ジェフ」
「あんな生活は良くない、リック。君だって、この二週間、楽しかっただろう? 君はとても生き生きしていた。少なくとも、この前の時とは大違いだ」
「離せ!」
ウエイトの差はある。病み上がりとはいえ、容易にジェフリーの腕を振り払えないはずだ。
これを逃せば、もう機会は巡ってこないかも知れない。二度とリクヤはここに来ないだろう。これ一回きりの機会なら、とことん彼を引き止める――ジェフリーはそのつもりで、彼を掴む手に力を込めた。
鈍い痛みを鳩尾の辺りに感じた。発作の痛みではなく、人間の手によるものだ。ジェフリーの手は意思に反してリックの腕から外れた。同時にソファに座り込む。
リクヤが日本のハイスクール時代、ボクシングの選手だったと言うことをジェフリーは思い出した。鳩尾の痛みは、彼のボディブローが決まったのだ。もちろん本気の一発ではない。中る寸前で拳は止まり、軽く押した程度だった。ツボを心得ているから、それだけでもジェフリーには十分に効果があった。
「どうしてそんなに頑ななんだ」
ソファに転がり、ジェフリーは息を整える。自分を見下ろすリクヤの目は冷たく不機嫌だった。本気で怒らせたかも知れない。こんな表情をジェフリーに見せるのは初めてだ。リクヤの不機嫌な顔を見られるのは、ユアン・グリフィスの独占市場だった。
少しは、自分に気を許してくれているのかな…と、ジェフリーはぼんやり彼のその表情を見る。
「俺に構うな」
「リック」
「もう誰の死も見たくない」
リクヤは片付けたものの中から、自分のものを分けて手に持った。それから部屋に戻るため、ドアに向かって歩き出す。
『もう誰の死も見たくない』
吐き捨てられた彼の言葉は、ジェフリーの耳の中に残った。
リクヤが指示した検査は、呆れるくらい多項目に渡っていた。それはなぜかとジェフリーは自問する。
「リック!」
ジェフリーはソファから飛び起き、リクヤの後を追った。名を呼ばれて一瞬、足が止まった彼との距離は大股で三歩。彼が振り返った時には、ジェフリーはその身体を抱きしめていた。
リクヤの手の中のものが、床に散乱する。
「僕が死ぬって、誰が決めたんだ?」
「人間はいずれ死ぬ」
「そうだ、いずれ死ぬ。だったら、それまで誰かと一緒に過ごそうとは思わないのか?」
リクヤが身をよじった。腕か身体かの違いで、さっきと同じパターンだ。またボディブローを食らうかも知れなかったが、そうなってもジェフリーは構わないと思った。今度は彼を絶対に離さない。
「きっと、ジェフの方が先に逝く」
「逝かないさ」
「病気持ちになったじゃないか」
「これから節制するよ。君の言う通り、二十ポンド落とす」
抱きしめた腕が余る。いつの間に彼は、こんなに頼りなくなっていたのだろうか。ジェフリーは両腕に一層、力を入れずにおれなかった。
「あてにならない」
「逝かないよ」
「もうあんな思いはしたくないっ!」
「君より先に逝かないから」
「大事な人間は皆、俺を置いて先に逝く。今度また、誰かを目の前で失ったら、…立ち直れない」
微かにリクヤの声が震えている。
――こんなにも…。人との関係を絶ってしまおうとするほどに。
ジェフリーは温かいものが頬を伝うのを感じた。次から次へと涙が溢れ出す。これは二人分だ。泣かないリクヤの蓄積された涙が、ジェフリーの腕から伝染したのだ。同時に思い出として封じたはずの想いが、形を変えて蘇る――恋ではなく、愛として。
「約束する。一分でも長く、君より長生きする。だから、一緒に生きよう。一緒に、生きてくれ」
その言葉に対するリクヤの答えはなかった。ただ強張った彼の身体の力は抜け、腕に重みがかかったのを感じた。リックの膝がガクリと折れる。彼を支えて、ジェフリーもまた床に膝をついた。
ジェフリーはリクヤの額とこめかみにキスをした。何度も、何度も、慈しむように、愛おしむように。
彼を思い切り抱きしめる。凍えた心を温めるように。
そしてその背中を撫でつづける。涙を促すために。
「ド田舎だなぁ。よくもまあ、思いきったね、りっくん? 年取ったら、都会の方が便利だと思うけど」
湖の周りの木々が赤や黄に色づき始めた頃、二人の日本人がアシェンナレイクサイドにやって来た。どちらもリクヤの友人で、一人はチェリスト、もう一人はピアノの調律師。彼らの訪問の目的はピアノの調律と、それを使ってのミニ・コンサートだった。