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愛シテル

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 最期のその瞬間まで、リクヤに愛を囁き続けたユアン・グリフィス。
 その姿を看取ったリクヤに、再び、白衣を着せようとするのは、残酷なことではないのか?
「おかえりなさい、先生。バートラムさんの容態、どうですか?」
 クリニックに戻ると、本来、午後はいないはずのマーガレットが帰り支度をしていた。
「あまり良くない…って、君、何で今頃までいるんだ?」
 時計を見ると午後五時になろうとしている。
「先生が出かけて、ここを閉めて帰ろうと思ったら、レイノルズさんとこの坊やが運ばれて来たんです」
「ティミー?」
「ええ、草野球していて脱臼したんです。もう痛がって大変でした。先生ったら、携帯の電源、切ってらしたでしょう? 繋がらないんだもの。どうしようかと思いましたよ」
「それで、どうしたんだ?」
「お友達の先生が整復してくださいました」
「お友達?」
「ほら、一週間前からいらしてる…」
 デスクの上にはカルテが用意されていた。マーガレットの話は途中だったが、ジェフリーは慌てて『ティモシー・レイノルズ』と書かれたカルテを開く。見覚えのある筆跡での所見メモが挟まっていた。もちろんジェフリーのものではない。カルテは他にも数枚。それら全て、同じ筆跡のそれが挟んであった。
「その後、続けざまに患者さんが来ちゃって、帰りそびれたんです」
「そうか、リックが…」
 横滑りの走り書きが懐かしい。マクレインの頃と少しも変わっていなかった。
 その字を指でなぞる。じんわりと指先が熱くなる。
 マーガレットが帰った後もしばらく、ジェフリーはメモを飽かずに眺めていた。




 リクヤの滞在予定は二週間。すでに三分の二を過ぎていたが、ジェフリーの思惑は外れっぱなしである。
 当初のジェフリーの予定では、後半一週間に自分のサマー・ホリデイを重ねるつもりだった。湖での釣りやキャンプ等々を計画し、そのためにエレナのところからキャンプ道具一式を借り受けたと言うのに、変更を余儀なくされている。ジェフリーは危篤患者を抱えていた。休日のみならず、平日の夜中にも呼び出されることがしばしばな状態だから、家を留守にするなど出来ない。
 当然、その計画に付随した思惑その二も、なかなか進まなかった。思惑その二とは、一緒にクリニックをやってもらえないかと説得することである。そのためには、ここでの生活がどれだけ素晴らしいか知ってもらう必要がある。美しい自然と、のんびりした環境。その良さを十分に堪能させて、それから医師として復帰することを促そうと言うのが、ジェフリーのシナリオであった。
 ところが、である。危篤患者は仕方が無いとして、一般外来の患者まで増えるとはどう言うことなのだろう? 確かに夏休み中で、子供の怪我率も高い――にしても神様に意地悪されているのではないかと疑ってしまう忙しさだ。
「申し訳ないな。せっかく来てくれているのに、碌に相手も出来なくって」
「いや、十分楽しんでるけど? 良い休暇だ。今日はエレナからフルーツ・アラカルトのパイを教わる予定だし」
 そんなジェフリーの気持ちを他所に、リクヤはリクヤなりに休日を楽しんでいる。毎朝、牛乳を届けに来るエレナともすっかり意気投合し、料理を教わったりしていた。大学が夏休みで牧場を手伝っているジェームズの妹や、その友達とも交流があるらしい。
 彼は昔から女性の扱いが上手かった。若い頃は情事の相手に不自由せず、華やかな噂が絶えなかった。複数のガールフレンドが常にいて、どれも割り切った関係で付き合い方がきれいなため、トラブルになったことは一度もない。マクレインには彼よりもハンサムなスタッフは大勢いたが、彼ほどにモテた人間はなかった。隠棲して衰えたかに見えた魅力は、今もって健在であることをジェフリーは思い知らされる。一歳のエイミーでさえ、ジェフリーよりも彼の「おいで」を選ぶのだから。
「ツレナイなぁ」
と、リクヤの素っ気無さに嘆いてみせたものの、ジェフリーは内心「ほっ」としていた。リクヤの表情が、以前の彼のそれに戻ってきているからだ。一年半前に再会した折の、一人にさせておけないとジェフリーに思わせた印象は、ずいぶんと薄くなっていた。
――努力は無駄ではなかったと言うことか
 俄然、『思惑その二』へのファイトが湧くというものだ。
 
 


 ずっと危篤状態だったサイモン・バートラムが亡くなったのは、リクヤが帰る二日前のことだった。数日前から意識は混濁し、その苦しみようは尋常ではなく、昼夜問わずにジェフリーは呼び出された。痛み止めを注射し、小康状態になったら帰る…の繰り返し。注射の投薬量はすでに上限。薬効の持続時間は日に日に短くなっていた。
 家族の疲労はピークに達していたが、それはジェフリーとて同じだった。マクレインでは四十時間以上の連続勤務をこなしたこともあったのに、さすがに寄る年波には勝てないと言うことかと、ジェフリーは自嘲した。
 最期を迎えたバートラムの表情は安らかだった。死を見届けるためだけに看病していた家族にとって、少なからず救いになったに違いない。バートラムのその安らかな死は、彼を苦痛から、そんな彼を見続けた家族を苦しみから、ジェフリーを疲労から解放したことになる。
「先生、お疲れなんじゃないですか? 今朝までバートラムさんのところにいらしたんでしょう?」
 診察の準備をしながら、マーガレットが気遣うように言った。
「大丈夫さ。帰ってから仮眠を取ったし、第一、疲れるほどのことをしていたわけじゃないしね」
 何も出来なかった。段々と幽けくなる呼吸を見守っただけだ。
「でもここのところ連日だったでしょう? お友達の先生に、この前みたいに手伝ってもらえないんですか?」
「彼は休暇で来ているんだよ。そうそう無理は言えないさ」
 結局、二週間近く滞在する中でリクヤが診察室に足を踏み入れたのは、あの一度きりだった。あれ以後、ハプニングも無かったし、彼の手を借りたいほどの忙しい状況も訪れなかった。もっとも頼んだところで、手伝ってくれるかどうか。何度もここに残ってくれないかと説得を試みたが、ジェフリーが望むような反応は得られなかった。あの一日は夢ではなかったのかとさえ思う。
――でも夢じゃない
 その証拠に、リクヤがカルテに挟んでいたメモが、机の引き出しにある。時々それを取り出しては、チャレンジ精神に火を点けるジェフリーであった。
 その時、チリリと、ジェフリーは胸に痛みを感じた。
「え…?」
 左前胸部から左肩に広がる圧迫感。締め付けるような痛みで、途端に息苦しくなり、
――何だ、この痛みは、心臓?!
と自覚した時には、立っていられなくなっていた。
「先生?!」
 マーガレットが慌てて駆け寄ってくるのが見えたが、ジェフリーは自分の身体をコントロール出来ず、胸を押さえて蹲った。この痛みは狭心症の症状だ。
 『狭心症にはニトログリセリン』の意識はある。しかしマーガレットにそれを伝えられなかったし、そんな余裕などジェフリーにはない。
作品名:愛シテル 作家名:紙森けい