愛シテル
epilogue 後編 〜ジェフリー54才 りく也54才〜
Love will be found the sweetest song of all.
(愛はまた、優しき歌を見い出すだろう)
ジェフリー・ジョーンズは、本日、起き抜けからすこぶる機嫌が良い。
あまりに良すぎて、絞りたての牛乳を朝食用に運んできた娘のエレナが、
「パパ、気持ち悪い」
と呆れ顔で言うくらいである。気を抜くと、否、抜かなくとも、自然と口元が綻ぶのだ。
「いくら友達が来るからって、ちょっと浮かれ過ぎやしない? 本当に友達なの? 私より若いワイフは止してよね」
その浮かれっぷりに、エレナはチクリと嫌味を添えた。ジェフリーは今まで四度の結婚と離婚を経験している。彼女は最初の妻との子供で、つまりはそれ以後の結婚に至るパターンを知っていた。「友人」として紹介された女性が、たいてい父親と結婚する。だから今回のジェフリーの様子を見て、疑っているのだ。
「来るのは男だ。マクレインの時の同僚。ほら、おまえも知っているだろう? リクヤ・ナカハラ、リックだよ。くどいてくどいて、やっと招待を受けてくれたんだから、顔も緩もうってもんさ」
「え?! 待ってよ、パパ?! 今更、カミング・アウトなんてしないでよ?!」
エレナが思わず大声を発したものだから、大人しくテーブルチェアに座っていた一歳になる孫娘のエイミーが、驚いて泣き出した。慌ててエレナは彼女を抱き上げ、あやしながら怪訝そうにジェフリーを見る。
ジェフリーは抱かれたエイミーのピンク色の頬を撫でた。
「そんなんじゃないさ。とても大事な友達なんだ。だから失礼なこと、言うなよ?」
「ならいいけど。性別が違うだけで、何だか今までと似たようなパターンなんだもの」
エレナはそう言うと、泣き止んだエイミーをチェアに戻し、持ってきた牛乳やらバターやらチーズやらを、冷蔵庫に片付け始めた。
ジェフリーがマンハッタンのマクレイン総合病院を辞め、このウィスコンシン州のアシェンナレイクサイドにクリニックを開いて一年が経つ。きっかけは牧場主と結婚した娘のエレナ。その辺りのホーム・ドクターをしていた医師が、老齢のため引退することになり、代わりに誰かを紹介してくれないかとの相談を受けたのだ。マクレインでは要職に就き、それなりに顔の広いジェフリーだったが、声をかけた数人にはことごとく断られた。合衆国一の都会で、最先端医療の只中にいる彼らには、牛の数の方が人口より多い田舎に、魅力は感じなかったらしい。それで、ジェフリー自身がその話に乗ることにしたのだった。
ジェフリーは現場が好きだったが、経営面に参画を余儀なくされ、オフィスで過ごすことの方が多くなっていた。同期は開業や転職で年々減って行く。一番の友人だったリクヤ・ナカハラが病院を去るに至って、マクレインへの愛着はすっかり失せてしまった。このまま管理に明け暮れ、経営に頭を悩ませながら定年を迎えるのは、自分の本意ではないと思えた。
それにジェフリーにはもう一つ、思惑があった。優秀な医師でありながら、隠棲してしまった友人のリクヤ・ナカハラを、再び、現場に戻すと言うことだ。
リクヤ・ナカハラは日がすっかり暮れた頃、ジェフリーのクリニック兼自宅に到着した。
マディソン空港から北へ約四百キロ。更に東へ百キロ入った牧場地帯に、ジェフリーのクリニックはあった。州間高速道路はバス、そこから先はジェフリーの患者と、エレナの夫が運転する車を乗り継いだのだが、合計で五時間以上は車に乗っていたことになる。
「君は俺のところを田舎呼ばわりしたがね、ここの方がよっぽどだぞ?」
彼の顔にはさすがに疲れの色が出ていた。そして口調はジェフリーへの抗議を含んでいる。
「そうかな? 僕が君のところに行った時の印象と、さほど変わらんと思うぞ」
「いや、少なくとも俺のところは、幹線道路から百キロも離れてない」
リクヤはここに来るまで見たことを羅列した――人より牛を見た回数の方が多かっただの、同じ風景が延々と続いていて狐に化かされたかと思っただの、地平線に動くものが見えないため、スクリーンに映写されたものだと錯覚しただの。少し口調が柔らかくなったのは、ジェフリーの他にエレナとエイミーの姿を居間に見たからだろう。外面の良さはマクレインにいた頃と変わっていない。
ジェフリーは簡単に娘夫婦と孫娘の紹介をした。リクヤは自己紹介を返し、あらためてエレナの夫・ジェームズに迎えの礼を言う。
ジェフリーとリクヤは同じ年の五十四歳だが、見た目年齢には差があった。
「パパと同い年には見えないわ」
と言うエレナの言葉を、ジェフリーは否定出来なかった。東洋人の年齢はわかりづらい。リクヤも、四十代と言っても通るくらいだ。
「ジェフは二十ポンド(約九kg)痩せる必要がある。そうしたら少しは若返るさ」
リクヤがエレナに応えるように笑った。
「言うなよ、気にしてるってのに」
笑いが伝染する。ジェフリーはリクヤを見た。マクレインで働いていた頃の笑みが戻っている――ユアン・グリフィスが逝ってしまう前までの。
ユアン・グリフィスの死後、リクヤは「らしい」までに彼だった。二十年来の親友を亡くしたと言うのに、看取ったその日から人好きのする笑みで患者に接し、夜勤も連続勤務も、それまでと変わらずにこなした。そんな彼を「冷たい」と評するスタッフもいた。しかしジェフリーは、リクヤがどれほどユアン・グリフィスの死を悼んでいたかを知っている。
『急で悪いけど、今夜、カバーしてくれないか?』
ユアンの葬儀の日、リクヤは出勤してこなかった。ジェフリーの元に寄越した一本の電話が、彼が見せた唯一の『沈痛』だ。それ以後、退職するまで欠片も見せなかっただけに、かえって悲しみが深いのではないかと思われる。
リクヤは一年後に老眼を理由に退職し、五十一歳の若さで医療の道から、何の未練も見せずに離れた。ジェフリーがリクヤと再会したのはその二年後だが、田舎に隠棲し、ネット株の運用で生計を立てる彼は、口の端を少し上げる程度の笑みしか見せなくなっていた。
そんなリクヤを見て、何としても『外』に連れ出したいと思ったことを、ジェフリーは覚えている。
「長旅で疲れただろう? 片付けはやっておくから、先にシャワーを浴びてくれば?」
朝の早いエレナ達は、食事を済ませて片づけを終えると早々に帰り、ジェフリーとリクヤは手作りのチーズと腸詰を肴に、居間でしばらく飲んでいた。積もる話と酔いが時間を忘れさせたが、翌日は休みでないこともあって、日付が変わる頃、グラスを置く。
「いや、俺は後でいいよ。君は明日、診察があるんじゃないのか? 片付けはやっておく」
ジェフリーの手からリクヤが皿を引き取る。
「ゲストにそれはさせられないよ」
「二週間もタダ飯食わせてもらうんだから、これぐらいはするさ。機械が洗ってくれるしね」
そう言うとキッチンに足を向けた。
「タダ飯…、クリニックを手伝ってくれる気はないのか?」
ジェフリーが彼の背中に向かって尋ねる。
「俺は『ゲスト』じゃなかったっけ?」
リクヤは振り返り、こともなげに答えた。
ジェフリーは肩を竦めると、「お先に」とバス・ルームに向かった。