愛シテル
本編12 〜November−a りく也49才 ユアン51才〜
「今日は何だ?」
りく也は検査ベッドにうなだれて座るユアンに、いつもの調子で尋ねた。「いつもの調子」とは、「大した病気でもないのに病院に来るな」と言う意味を含んだ、あきれた口調のことである。
ユアンは勝手にりく也のことを主治医扱いして、何かあるとマクレイン総合病院の外来を受診するのだった。それはたいてい、街のドラッグストアにある消毒液だの、鎮痛薬だので事足りる些細な症状で、わざわざ出向くほどのものではなかった。名士でもともとの家柄も良い彼には、電話一本で飛んでくるホーム・ドクターがいる。何も自ら病院――それも公立――に、足を運ぶ必要はないのだ。
それはりく也がレジデントとしてここのERに配属されてからずっとだった。身体を診てもらうことではなく、会いに来ることが目的であるのは周知のことだ。だからユアンが外来に姿を見せると、とにかくリクヤ・ナカハラに回すと言うことが暗黙の了解となっていた。
今日は週に一度、りく也が受け持つ救急医療のゼミの日。講義を終えてミーティング・ルームを最後に出た彼を待っていたのは、今や診療科部長となったジェフリー・ジョーンズだった。
「VIPが来ているよ」
その言葉でユアンが来ていることがわかった。
「どうせ大したことじゃないんだから、医学生にでも押し付けてくれればいいのに」
コーヒーくらい飲む時間はあるだろうと続け、ドクター・ラウンジに向かうりく也を、「いつもと様子が違う」とジェフリーが止めた。そしてユアンの待つ検査室に、半ば引っ張られて来たのである。
確かに、目の前のユアンはいつもと違う。まず服装が、あきらかに葬式帰りだった。憔悴しきった顔でうなだれ、りく也が目の前に立っているのに、抱きつかんばかりの挨拶もなし。あまりにも普段と違う様子にジェフリーが配慮したのか、その部屋には彼以外に患者はいなかった。
「どうしたんだ? 葬式だったのか?」
亡くなったのはよほど近しい人間かも知れない。りく也は語調を和らげた。
ユアンがやっと顔を上げる。頬に出来た影に、りく也は違和感を覚えた。暗い表情が作っただけとは思えない、こけ様だった。
「エルンストが死んだよ…」
「エルンスト?」
エルンストと言われたところで、りく也にはわからない。
「チェリストの…」
ユアンには友人が多い。彼との会話で今まで何人の名前が出たことか。チェリストも一人や二人ではなかった。国籍も様々だ。
りく也の反応は薄かった。医師にとって、それもERでは、死はそんなに珍しいものでないし、多少、一般人と意識がかけ離れているだろう。知人でない以上、反応しようがない。
ユアンの言葉は途切れ、りく也は待たなければならなかった。しばらくして、ユアンが搾り出すように言った。
「彼はエイズだった」
りく也は壁にもたせていた背を浮かせ、ユアンを見る。
「エイズで死んだんだ。どうしよう、私も、感染しているかも知れない!」
ユアンは両手で顔を覆うと、また沈黙した。
エイズ――Acquired Immune Deficiency Syndrome 後天性免疫不全症候群。ヒト免疫不全ウイルス(HIV)に感染して発症、免疫システムが機能しなくなる難病だ。医学の進歩で進行を遅らせることは出来る。イコール死ではなくなったとは言え、不治の病に変わりなく、病状が進むと死亡率は跳ね上がった。
「どうしよう、リクヤ?!」
ユアンはりく也の腕に取りすがった。
「落ち着け。そいつとのセックスでコンドームは使わなかったのか?」
「使ったよ。でも、オーラルでは使わないこともある」
「とにかく検査を受けろ。セックスの相手がエイズで死んだからと言って、感染しているとは限らない」
自分の腕を痛いほど掴むユアンの手を解き、ベッドに座らせた。
「…ここ最近、食欲がないんだ。演奏旅行で忙しかったし、中国に行った時に水が合わなくて下痢気味だったし、そのせいで体重も減ったのかと思っていたんだけど」
とユアンが言うので、りく也はあらためて彼を観察した。
りく也が彼と会うのは、三ヶ月ぶりくらいだ。前回会ったのは長期演奏旅行の合間を縫って、デヴュー何周年記念だかのCD製作のために戻った時だった。スタジオに向かう途中、りく也の顔を見にマクレインに寄った彼に痩せた感じを受けたが、病的には見えなかったし、本人が「ジムの成果が出てきた」と嬉そうに言うので、別段、気にはしなかった。
友人の死でショックを受け、やつれていることを差し引いたとしても、今のユアンの痩せ具合は気になるところではあった。
りく也は冷静に頭の中から『AIDS』の情報を抜き出す。体重の減少以外は彼に特有の症状は見られない。エイズも早期に適切な治療を開始すれば、昔のように恐い病気ではなくなってきている。
「だから検査を受けろよ。血液検査でポジ(=ポジティヴ・陽性)かどうかすぐわかる。俺がしてやるから」
「だったら、君も受けてくれ」
「何で俺が?」
「キスしたから、私と」
意外な彼の答えに、りく也は「え?」と聞き返す。それから一瞬の内に記憶力を総動員して、ユアンとのキス・シーンを掘り起こしてみた。どこをどう探しても、そんな場面にたどり着かなかったが、ふと、あやふやな記憶があることを思い出す。二年くらい前に風邪で倒れたことがあって、ユアンの車で帰ったのだ。あの車中、ユアンの唇が自分の唇に触れたような気がする。でもあれは、マスク越しだった。
「馬鹿馬鹿しい、あの程度で移ってたまるか」
「違う、もっと前に…」
「もっと前? いつの話だ? 俺の記憶にはないぞ?」
「ロスで、サクヤの結婚式のあった夜だ。すごく酔った君を部屋まで送って、その…、君があまりにも無防備で、私は我慢出来なかったんだ。キスをしたら君も応えてくれた。とても情熱的に」
「なんだと?!」
そう言えば兄のさく也がパートナーの加納悦嗣と、ロサンゼルスの教会で形だけの結婚式を挙げたことがあった。二人が休暇先のサンフランシスコへ向かったその夜、りく也は不覚にもホテルのバーで酔いつぶれてしまった。最愛の兄の結婚がショックだったからではなく、持ち株の下落によって破産するか否かの瀬戸際で、飲まずにいられなかったのだ。翌朝起きると、ちゃんとベッドで寝ていたのだが、ユアンが同衾していた上に、二人とも全裸だった。
「あの時、何もしなかったんじゃないのか?!」
少なくとも身体にその痕跡はなかった。
「キスだけだよ。それ以外は何もしていない、神に誓って。だから、だから、君も検査を」
一気にヒートアップしそうな気持ちを、りく也は抑えた。キス――それも話によるとディープなものだったらしいが――をしたことがある事実よりも、医師としての理性の方が勝ったからだ。但し、大きなため息つきで。
「いいか、さく也の結婚式は十年も前の話だろう? 一番長い無症候期だったにせよ、キスごときで感染はしない」
「ディープ・キスでも?」
「ディープ・キスでも! だいたい、そのチェリストとのセックスは、いつが最後だったんだ?」
「君がレジデントになったばかりの頃だよ」