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愛シテル

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 それはさく也の結婚式から更に五、六年も遡る。HIVキャリアとしての無症候期は五〜十年。感染していたなら、とっくに症状が出ているはずだ。そのチェリストからの感染は考えられない。キス程度の接触とそのことから鑑みて、りく也の羅患はまずなかった。
 ただユアンの場合は別だ。恋愛対象が同性で、チェリスト以降も誰かしらと性交渉があるかぎり、可能性は捨てきれない。それに、どう見ても今の痩せ方は気になる。
「とにかく検査を受けろ。注射が恐いって年でもないだろう?」
 10年前のキスの件はそれからだ――りく也は検査キットを取りに部屋を出た。




 ユアン・グリフィスのHIV抗体検査は陰性(ネガティヴ)。しかし、問題は別のところにあった。
「これは、なかなか…厳しいですね」
 腫瘍科医師のミハエル・ソコロフは、MRIの結果を画面で見ながら言った。隣のりく也に同意を求めているようであり、独り言のようでもあり、いずれにしてもそれは呟きに近かった。
 りく也は黙って画像を見つめる。映っているのは、ユアンの胸部と腹部。次へ次へと進む画像には必ず、健常な場合には見られないものが映っていた。あきらかに腫瘍だ。
 りく也の医師の目は冷静に分析する。ERに送信されてきた時点で、彼の中で大よその診断は出ていた。専門のミハエルの所見を仰ぎにきたのは、それの確認のためである。
「ステージ?の胃がんだ」
 ミハエルは胃部の画像を並べる。
「多発性肝転移を起こしていますね。それに肺にも兆候が見える。大動脈周囲のリンパ節にまで」
 腫瘍部分を指しながら、彼は詳しく説明を加えた。それは概ね、りく也が下した診断と変わりがなかった。
 これから先は専門科の領域だ。りく也の役目は、告知を残すのみとなる。
「よくここまで放っておいたものですね?」
「自覚症状の出難い場合もある。鈍感なヤツだから、ただの胃炎だとでも思ったんだろう」
 国際的なピアニストであるユアンの名声は、ここ数年、高まる一方だった。五十歳を超えて、その表現力は一層の深みを増したともっぱらの評判で、また衰えを知らない美貌が渋味を加え、優雅なパフォーマンスが見る者を惹きつけた。最もチケットを取り難いと言われるピアニストの一人となった彼は、休みなく大西洋を横断する。身体の不調を感じる暇などなかっただろう。
「ありがとう、後でまた」
 一通りの説明を受けた後、りく也は腫瘍科病棟を出た。
 HIVは確かにネガティヴだったが、CEAとCA19−9――共に腫瘍マーカー――の数値は平常値を超えていた。
 エイズの可能性がなくなったことで、ユアンはすっかりいつもの元気を取り戻し、浮かれて他の検査結果など真面目に聞こうとしなかった。
 癌は今や、不治の病ではなくなりつつある。財力と、入っている保険ランクから言って、最高水準の治療を受けられる彼には、癌などエイズより遥かに楽観視する病であった。それをねじ伏せるようにしてりく也は、より詳細な検査を受けるように勧めた。半ば強制に近く、医師としての立場を崩さない彼に、ユアンはしぶしぶ従ったのだ。
 ERに戻ってきたりく也を、受付でジェフリーが待ち構えていた。
「どうだった?」
「予想通り」
 素気無く答えて、ユアンを待たせている検査室に向かう。ジェフリーがあわてて後に続いた。MRIの画像は彼も目にしている。
「予想通りって、ステージは?」
「?」
「??!」
 ジェフリーの足が止まった。しかしりく也は止まらない。相変わらず患者で溢れかえっている外来待合を横目に、呼び止める看護師も、レジデントも医学生も無視に近い対応で往なす。ジェフリーの気配は後ろに感じられなかった。誰かに足止めをくらったか、もしくはあのまま、止まってしまったのか。
 ユアンの姿が廊下に面した窓から見えた。背もたれを起こしたベッドに横たわり、退屈そうに雑誌を広げている。一人でいるようだった。りく也は立ち止まり、しばしその様子を見ていた。
 告知は主治医の義務だ。りく也は今まで、何度となくそれを行ってきた。病状がどの程度であるかを知ることは、患者の権利でもある。今後の方針を示し、患者自身に理解・協力をしてもらうことで、より良い治療の成果が上げられることも知っていた。
 ユアン・グリフィスの病状は深刻だった。りく也とミハエルの見解は、余命は三ヶ月あるかどうかで一致している。手術をするにしても、根治術を目的としたものではなく、症状を軽減するための姑息型になるだろう。それは延命処置に過ぎず、検査結果が導き出した結論が変わることはまずない。
――なぜ俺は、動かないんだ?
 りく也は止まったままの自分の足を見る。白衣のポケットに突っ込んだ左手が、汗ばんでいるのは気のせいか?
 視線を戻すと、ユアンがりく也に気が付いて手を振っていた。それを合図にりく也の足はようやく動いた。
 ポケットの左手は汗が冷えて、握り込んだ指先を次第に冷たくする――りく也は自嘲し、検査室のドアを押し開けた。


作品名:愛シテル 作家名:紙森けい