愛シテル
本編11 〜October りく也47才 ユアン49才〜
「ここは、相変わらずだね?」
マクレイン総合病院のERに足を踏み入れるなり、誰にともなくユアンは呟いた。外来待合室には人が溢れていた。皆、一様に顔色が悪く、場違いに華やかな容姿のユアンを物憂げに見る。中には彼が高名なピアニストだとわかる者もいたが、声をかける気力はなさそうだった。
「やあ、こんにちは。どうされたんです?」
通りかかったのはジェフリーだった。彼はカルテに何やら書き込むと、一緒に歩いていた看護師に手渡し、ユアンの脇で立ち止まる。
「さっきNYに戻ったんだ。リクヤは?」
「出勤していますよ。ああ、でも今日はすこぶる機嫌が悪いから、気をつけた方がいいかも」
「珍しいね」
リクヤが不機嫌な表情を見せるのは、ユアンを相手にする時に決まっていた。同僚や患者や女性に対しては当りが柔らかく、滅多に怒った顔を見せない。だから彼の不機嫌な表情と悪態は、自分が彼にとって少しばかり特別な存在なのだと、ユアンを喜ばせていた。
「最近、年のせいか結構、顔に出すようになってきましたよ」
ジェフリーの言葉にユアンは複雑な笑みを浮かべた。二人は肩を並べて歩き始めた。
リクヤの不機嫌の原因は、十月の半ばからニューヨークで流行しているインフルエンザにあるらしい。患者が増えるのは当たり前だが、病院スタッフにも平等に流行るものだから、人手不足に拍車がかかっていた。インフルエンザの患者に、事故や事件の急患、他科の応援に人手を取られ――もちろんERにも他科からの応援は来ているが――、勤務シフトは崩れる一方。ジェフリーもここ数日、病院に寝泊りする日が続いているのだと言う。
「それに彼自身も体調を崩しているし」
「リクヤが?」
「ええ、インフルエンザはネガティブなんですがね、熱があるようで。でもここがこんなだし、騙し騙し働いてもらっているんです。これでも少し患者が減ったから、今、仮眠を取っていますよ」
受付までの数メートル、ジェフリーは何度も看護師や医師に足を止められた。受付に着いたら着いたで次の患者のカルテが待っていた。これで「少しは減った」と言うのなら、今まではどれくらい忙しかったのだろう…とユアンは思った。
「勇気があるなら、仮眠室を覘いて来たらどうです…っと、噂をすれば」
ジェフリーはユアンの肩越しに目をやった。振り返るとマスク姿のリクヤが、全身に「不機嫌です」のオーラを醸し出して歩いてくる。三ヶ月ぶりのリクヤに、ユアンの顔には満面の笑みが浮かんだ。そんなユアンを一瞥した彼は片方の眉をピクリと上げる。「やあ」とユアンが言うより先に、リクヤはジェフリーの目の前に紙切れをヒラヒラと突き出した。
「この張り紙、君だな? 誰が魔王だ、誰が」
くぐもった声もまた、オーラ同様に不機嫌だった。
ユアンと受付にいた数人がその紙切れを読む。『危険! 魔王の眠りを妨げるものは…』と書かれていた。
ジェフリーがニヤリと笑う。
「君の安眠を守るために、腐心したんだよ。おかげでよく眠れたろう?」
「そりゃどうも。上がらせてもらえたら、もっと感謝するんだけど?」
「この状況を見たまえよ」
リクヤの言葉に、ジェフリーは顎で待合室を示した。リクヤはマスクの内で嘆息したようだった。ユアンが「大丈夫かい?」と声をかけると、
「なんだ、来ていたのか? こんな所でウロウロしていたら、うつるぞ」
と素気無く答える。ユアンを見上げた目は、熱のせいか潤んで見えた。結構重症なのではないかと、素人目にもわかる。しかしそれはそれで、なかなかにそそられた。不謹慎にも思わず抱きしめてしまいそうになるのを、ユアンは抑えた――が。
次の瞬間、リクヤの体がグラリと傾(かし)いだ。
「リクヤ?!」
ユアンが慌てて腕で支える。リクヤは辛うじて倒れこむのを踏むとどまり、その腕を借りて体勢を戻した。袖越しであるにもかかわらず、彼の体の熱さが伝わる。ユアンは空いた手で彼の額を触った。かなり熱い。
「熱がある。休まないとダメだよ」
リクヤは額の手を払いのけた。
「これくらい点滴すれば下がる」
「ダメだっ!」
ユアンの一喝に、周りの視線が集中する。そんなものを気にも留めず、リクヤの手首を掴み腕の中に収めた。
「ドクター・ジョーンズ、彼は連れて帰るから。いいね?!」
呆気に取られるジェフリーを振り返り、そう言い捨てると、ユアンは有無を言わさず、リクヤの肩を抱いてERを後にした。
夕方のマンハッタンは例のごとく渋滞していて、思うように車は進まなかった。
車窓に頭をもたせ掛けて、リクヤは目を閉じている。時折、マスク越しに咳が聞こえて、眠っていないことがわかった。ユアンは彼との間を大きく空けて「横たわれば?」と勧めたが、微かに首を振って体勢を変えない。
シートの隅にじっと身を寄せる姿は、手負いの動物のように見えた。彼のために温度を上げたエアコンも、熱のある身体を温めるには充分ではないのか、白衣の前をきっちり合わせて腕を組む。車に乗ってから、ずっとこの調子だ。職場では気が張って保てたものが弛んでしまったのだろう。本当に具合が良くないのだ。
ユアンは脱いだ自分の上着を彼にかけた。一瞬、薄く目が開いて、またすぐに閉じられる。ユアンは彼の身体を引き寄せ、背後から抱き込んだ。一度、強く抱きしめて、その頭に何度もキスをする。虚を突かれたからか、不調で抵抗する力が出ないせいか、リクヤはおとなしくされるがままだった。
「…何、しやがる?」
物言いは変わらなかった。ようやくいつもの彼の片鱗が見えて、ユアンは安心した。
「私が子供の頃、具合が悪くなると母がこうして抱きしめて、何度もキスをくれたんだ。不思議と安心出来て、よく眠れた」
「…俺は、子供か…。離せよ」
「いやだね。君に触れられるのは、弱っている時だけだもの。おとなしく抱かれていたまえよ。この方が暖かいし、楽だろう?」
かかるリクヤの重みが、増したように感じた。どうやら諦めたようだ。ユアンは腕の力を少し緩めた。
――あれは、何年前だったかな
以前にもリクヤをこうして抱き締めて、一晩を過ごしたことがある。彼の兄・サクヤとそのパートナー・エツシが、ロサンゼルスで結婚式を上げた夜だった。正体を無くすくらいに酔ったリクヤをホテルの部屋に送り、一つのベッドで眠った。もちろん何もしなかった。同意がないセックスはユアンの主義に反する。確かに魅力的な状態だったし、誘惑がなかったわけではない。ただそうすれば、彼はユアンから離れてしまったろう。
ユアンはリクヤとちゃんとした恋愛をしたかった。身体だけではなく、彼の心にも触れたい。今までのどんな相手にも感じなかった愛おしさが、そのことをユアンに切望させる。彼の『視界』に自分が入るまで待つつもりで、気がつけば十六年経ってしまった。二人の距離は縮まらない。しかし開いてもいないように思う。
寄りかかるリクヤの重みが、聞けなかったことを言葉に綴る。
「リクヤ…、少しでも私のことを好いてくれているかい?」
腕の中のリクヤは動かなかった。寝入ってしまったのかも知れない。
「おまえは良いヤツだと思ってるさ。」