愛シテル
今ごろリクヤはマンハッタンの高級ホテルで、高い酒を飲み、ご馳走を食べていることだろう。うらやましいことだ。
一台のタクシーが非常階段の脇を通り過ぎ、搬入口に横付けされた。緊急車両以外は進入禁止のこのエリアに入ってくるということは、急患かも知れない。ジェフリーは立ち上がってタクシーを見た。
「れ、リック?」
後部座席から降り立ったのは、リクヤだった。まだアフタヌーン・パーティーは終わっていないはずだ。誰かが患者の件で連絡を入れたのだろうか――いや、それはない。今日、リクヤにコールするなとスタッフには言い含めておいたし、彼の受け持ちはジェフリー自身がカバーしていた。
リクヤは病棟の中に入り、その後ろにタクシーの運転手が続いた。ジェフリーも何事かと、その後を追う。
「あの人が、ジョーンズ先生だよ。先生」
受付を通り過ぎようとした彼を、ウォーレンが呼び止めた。
「この人が先生に用があるそうですよ」
ウォーレンは受付の前に立っている男を指した。
「ジョーンズ先生?」
浅黒い肌のその男に「そうだ」と答えると、彼は掌くらいのメモをジェフリーが読めるように、目の前に掲げた。
「なんだ、このメモは? えっと何々、『思い当たることがあるはずだ。タクシー代くらい出してもバチはあたらない』?」
走り書きの文字には見覚えがある。
「さっきの先生が、あんたに払ってもらえって。倍は出してくれるだろうって言ってたよ」
タクシーの運転手はにやりと白い歯を出して笑って、メモをひっくり返した。筆跡の違う文字で金額が書き記されている。メモに書かれた通り、思い当たることがあるジェフリーは苦笑いを浮かべて、仕方なくズボンのポケットからマネークリップを取り出す。額面の倍を渡すと、運転手はまた歯を出して笑い、車に戻って行った。
「今日はオフだろう?」
ドクター・ラウンジでは、リクヤがオペレーション・ウエアに着替えている最中だった。ジェフリーが声をかけると、脱いだ物をロッカーに突っ込んで、肩越しにまず視線を寄こす。鋭い眼差しが突き刺さるようで、ジェフリーは怯んだ。少し肩が開いて笑んだ口元が見えたが、その眼差しは緩和しなかった。
「オフだよ。だから、今から仮眠室で寝る」
ロッカーの扉が閉まると、微かにコロンが香った。普段、リクヤが使っているものとは違う。これはユアン・グリフィス愛用のテリュ・リリュの『oath(誓い)』。フラワー・ノートをベースにした、メンズにしてはかなりの芳香だ。その匂いには彼も気づいたらしく、口元がへの字になった。
「何か怒ってる?」
一応、聞いてみる。タクシー代を自分に回した時点で、今回の役割を彼に知られていることはわかっていた。
ポットからコーヒーを注ぎ、リクヤはジェフリーを見た。
「別に。たかがオフがパアになったくらいで、そんなに目くじらもたてないさ。人の交友関係にクレームつける権利はないしね」
今度は目にも笑みが浮かんでいた。いつものリクヤ・ナカハラだ。同僚にもナースにも患者にも人気のある、嫌味のない穏やかな笑顔に、一瞬、垣間見せた表情は紛れてしまった。
「まったく、いつの間に結託してたんだ? まさか君に裏切られるとは思ってなかったよ」
ジェフリーの分もコーヒーをコップに注いで差し出す。それを受け取って、ジェフリーは答えた。
「うーん、やっぱり賭けには勝ちたいからねぇ」
「賭け?」
「そう。『望みなし』、『デート止まり』、『ベッドイン』。もちろん僕はベッドインさ」
一本ずつ指を立てていくジェフリーに、呆れたようにリクヤは口を開けた。ジェフリーの言うところの賭けとは、彼らがレジデントだった大昔に行われていたものだったからだ。
「いつの話してるんだ」
リクヤに対するユアンの猛アタックは、医学生の臨床実習の時から周知であった。E.R.のレジデンシィ・プログラムが始まった頃から、誰からとなく賭けが始まった。リクヤがユアンに陥るかどうかを三択にしたもので、一番人気がなかったのは『ベッドイン』だった。ジェフリーは常にベッドインで大穴狙いである。ただし、賭けは無効となって久しい。
「僕の中では有効なんだよ。だから、ぜひともユアン・グリフィスには頑張って頂かないと」
「なんだそりゃ」
リクヤが不適な笑みを浮かべる。ジェフリーが賭けに勝つとは、これっぽっちも思っていないようだ。当のジェフリーでさえ、心の底では自分の勝利などありえないとあきらめている。
でも…とジェフリーは思った。
――少しは特別なんだろうな。
なぜならリクヤは他の人間を怒鳴ったりしない。ユアンを魅了しているであろうキツイ目は、他の人間に向けられたことはない。さきほど片鱗を見せはしたが、すぐに霧散してしまった。その誰も知らない表情は、ユアンの言うとおり、彼のために作り出されているのだから。
ラウンジのドアがノックされ、ナースのドミニクが顔を覗かせた。
「あら、ナカハラ先生。いらしてたんですか? ちょうどよかった、ゲオルギーさんが…」
と、もともとはリクヤの担当患者の容態を彼女が話そうとするのを、彼は制した。
「今日はオフ。ジョーンズ先生に言ってくれないか?」
隣を指差す。
「先生、転落事故のけが人が来ますよ」
別のナースがジェフリーを呼びに来た。助けを求めてリクヤを見るが、「オフ」の一言でそれも一蹴された。
「ランチ、まだなのになぁ」
恨めしげに、なおも彼にアピールする。しかしリクヤはコップを手に、ラウンジから続く仮眠室のドアに向かった。
「早く早く、ジョーンズ先生」
そしてジェフリーはナース達に追い立てられるようにして、ラウンジを後にした。